つづき……
一方、三河に侵攻していた信玄の足が止まる。かねてより持病を患っていた信玄が死去したのだ。この信玄の死は「三年は死を隠せ」という信玄の遺言によって伏せられていた。そのため、信玄の死を知らない義昭は「自分のバックには信玄がついている」
と思い、講和からわずか3ヶ月で再び信長を攻めようと挙兵する。しかし、待てど暮らせど信玄は信長を攻めない。そして篭城していた義昭は信長に攻め込まれ、追放されてしまう。
義昭を追放した信長は、その勢いのまま小谷城を包囲して浅井氏を追い込むと、援軍に来た後密かに撤退しようとした朝倉軍を追撃。越前まで攻め入ると、当主・朝倉義景を自害に追い込み、そのまま小谷城に攻め入って浅井長政も自害に追い込んだ。こうして、信玄の死をきっかけに第二次信長包囲網は崩壊したのだった。
もしも信玄が病気でなかったら、信玄は信長を倒して京へ上洛を果たしていたかもしれない。おそらく信玄にとっても、最期の侵攻は自分の体が保つかどうかの賭けだったのではないだろうか。信玄亡き後、武田家の勢力を維持できる程の力量が息子の勝頼に無いと思ったからこそ、最後に武田家にとって邪魔となる家康や信長を排除しようと動いたのかもしれない。信玄が自らの死を三年は秘すように命じたのも、自らの死後、武田家がどうなるか予想できたからだろう。その後、平安時代から続いた武田家は勝頼の代で滅びることとなる。
そもそも、越後の上杉謙信がいなければ、信玄はとっくに天下を統一していたかもしれない。信玄が病気でなければ、勝頼に信玄に劣らない力量があったら…様々な要因で、武田氏は信長に勝つことができなかった。逆にいえば、そこまで多勢に包囲されながらも生き延びた信長は、実力だけでなく運にも恵まれたということなのだろう。