信長を苦しめた男達~第二次信長包囲網~ⅰ

第一次信長包囲網が瓦解し危機を脱した信長であったが、反信長勢力がいなくなったわけではない。信長のおかげで将軍になれた足利義昭でさえも、実は反信長勢力の一人。せっかく将軍になったのに信長に利用されるばかりで権力など無い状態に不満を抱いた義昭は、反信長勢力に密書を送るなどして打倒信長の機を狙っていた。浅井氏・朝倉氏・三好三人衆・石山本願寺・延暦寺・六角氏などがこれに乗って反信長の旗色を示し、第二次信長包囲網が築かれた。これにより、信長はその鎮圧に奔走することとなる。

まずは近江の佐和山城を落とし、本願寺方の長島一向一揆を制圧。そして有名な比叡山延暦寺の焼き討ち(女子供まで容赦なく大虐殺したと言われる延暦寺の焼き討ちだが、近年、延暦寺には人がほとんどいなかったのではないかと言われている)を行って反信長勢力を潰していった信長だが、松永久秀などの家臣の裏切りにも遭い、「あっちを倒してもまたこっちから敵が出てくる」という余裕の無い状態であった。それでも少しずつ制圧し、包囲網を崩していった信長だったが、ついに戦国最強と恐れられる甲斐の武田信玄が挙兵する(ただし、挙兵の理由は定かではない)。かねてより信玄に狙われていた同盟国である三河の徳川家康の危機であったため援軍を送った信長であったが、三方ヶ原の戦いで徳川軍と共に惨敗する。家康の空城の計(あえて城の門を開けて敵を招き入れるようにすることで、逆に敵に警戒させて退却させる策)でかろうじて浜松城を取られずに済んだが、徳川・織田は窮地に立たされてしまう。

この状況を喜んだのが、将軍・義昭。「信長やられた!今がチャンス!」と挙兵。遂にこれまでの密かな反抗ではなく、明確に反信長の意思を示したのだった。講話を申し入れた信長だったが、義明はこれを拒否。そこで信長は京へ向け出兵するものの、天皇の命によって講話することとなる。                   …つづく