橋本左内に学ぶⅲ

前回は橋本左内の優秀さや人間性についてお話しましたが、今回は「橋本左内は何をした人で、なぜ処刑されたのか」についてお話します。

適塾で学んだ後、左内は越前福井藩主・松平春嶽に認められ、藩医、御書院番(藩主直属の親衛隊)、藩校学監となるなど、藩政を助けていきました。

その頃の江戸幕府将軍は徳川家定。この家定は病弱で、世継ぎもいませんでした。となると出てくるのがお世継ぎ問題。次の将軍にふさわしいのは誰か?となったとき、二人の候補が上がりました。一人は11代将軍家斉の孫で紀州徳川家徳川斉順の嫡男徳川慶福(後の徳川家茂)。もう一人は水戸藩主徳川斉昭の7男で御三卿の一橋家の養子となって一橋家当主となった一橋慶喜(後の徳川慶喜)。慶福は7歳と幼年なものの、家定とは従兄弟ということで将軍に一番血筋が近い人物でした。対して慶喜は16歳。その才覚も評価されていたものの、血筋としては少し遠い人物でした。この慶福派(南紀派)と慶喜派(一橋派)に分かれて将軍継嗣問題が勃発しました。

このとき一橋派の中心となって動いていたのが福井藩主松平春嶽でした。左内は春嶽の懐刀として、同じく一橋派の中心人物である薩摩藩主島津斉昭の重臣西郷隆盛と共に奔走しました。当時はちょうど黒船が来航し開国を迫られている時期だったため、血筋が近いが幼い慶福よりも、血筋は多少遠いが優秀な慶喜を将軍として国を守ろうというのが一橋派の考えでした。

実は春嶽、元はかなりの攘夷論者だったのですが、開国論者である左内の影響によって開国派に回ったのでした。そんな左内の開国論はとても革新的で、「今の日本の力では独立を保つことは不可能。このままでは日本は他国同様植民地にされてしまう。満州や朝鮮を合併し、強国ロシアと同盟を組み、富国強兵の改革をしなければならない。そして強国から指導者を招いて遅れている分野を発展させなければならない。今は日本が一丸となって事に当たるときであり、多少の嫌疑(将軍継嗣問題など)に拘っている場合ではない。」というものでした。左内にとって将軍継嗣問題は「開国に関わる些細な問題であり、さっさと解決して日本を守るために一丸となって動きたいという思いが一番。けれど、リーダーは優秀な人物でなければならないので一橋派として尽力する。」という感じだったのでしょう。それに対して南紀派は「まだ子ども?関係ない!(むしろ扱いやすいし。)血筋が一番でしょ!」という感じだったのでしょうから左内はイライラしたことでしょうね。
熱い一橋派の面々に対し、当の慶喜はあまり乗り気ではなかったようですし、幼い慶福はなおさら将軍になりたいと強く望むことはなかったでしょうが、そんな当事者の気持ちなど無視したまま争いは加熱していきました。
この続きは次回と致しましょう…