橋本左内に学ぶⅰ

皆さんは橋本左内という人物をご存知でしょうか?学校の日本史にも登場する人物であるので、名前は聞いたことがあるという方は多いはず。しかし、実際何を行った人なのかというと「安政の大獄で処刑された人」というくらいしか知らないのではないでしょうか。橋本左内はどのような人物で、何を成した人なのか。そして、何故処刑されなければならなかったのか…。左内の生涯はわずか26年と大変若くして亡くなりましたが、その生涯には学ぶべき点が多くあります。
そんな橋本左内の生涯についてご紹介します。

橋本左内は天保5年(1834年)、越前国(現在の福井県)に生まれました。医者の家に生まれた左内は、嘉永2年(1849年)に大阪の敵塾の門下生となり、緒方洪庵に師事して蘭方医学などを学びます。左内は医学だけでなく英語、オランダ語、ドイツ語にも長け、様々な学問を学んだ博学な人物でした。その人柄も素晴らしく、左内に会った人は皆彼の才能に驚嘆し、尊敬したと言われています。
しかし、左内自身の自己評価は大変厳しかったようで、幼少の頃に「自分は何をしてもおろそかで、注意が行き届かず、しかも弱々しくてぬるい性格であるため、いくら勉強しても進歩がないように思う。これではとても父母の思いに応え、藩や主君のお役に立ち、祖先の名を輝かすような人間になれるはずもない。一体自分はどうしてこんなに駄目なんだろう。そう思うと情けなくてたまらず、毎晩涙で布団を濡らした」と語ったそうです。左内は元々の才能も抜きん出て素晴らしかったのでしょうが、自分に厳しい性格であったために才能に驕らず努力を続けた結果、若くして多くの知識と人から尊敬されるような人望を得ることができたのでしょう。
そんな左内の性格がよく分かる『啓発録』という文書が残されています。これは自分を恥じた左内が自らを戒めるための誓いを記したものです。
啓発録に書かれている誓いは5つ。              次回紹介します。!