今月も明治維新について思うことを少々。江戸末期から明治四年ぐらいまでの間を一般的に俯瞰してみるとこうなるのではないだろうか。ペリーの来航により水戸の勤王思想と外国を打ち払えという攘夷が合体して尊皇攘夷運動となる。幕府だけが開国に積極的であった。すべての国民(実際には武士と呼ばれていた人たち)がその運動に参加しようとする。その結果、幕府からは強い粛清が行われる(安政の大獄)。この頃に咸臨丸が太平洋を横断している。すなわち最も保守的である幕府が日本では一番開明的であった。ところが数年を経過して尊皇攘夷がいつの間にか倒幕運動に変化していった。最も開明的で最も勤王の精神をもち最も先進的な幕府に、尊皇攘夷という最も非現実的な思想の諸藩が追いつめることになる。一般的には封建制という日本の旧体制への批判が倒幕と考えられる。そして賊軍となっていた長州や薩摩が勝者となり、天皇に対して最も忠誠を誓っていた会津などの幕府側は敗者となった(戊辰戦争)。勝てば官軍とはまさにこのこと。そして新しい日本が生まれることになる。◆歴史には「もし」はないが、もし幕府側が仮想敵国を黒船ではなく国内のある藩だと想定したなら、もし幕府が最新式の銃を手に入れていたなら、もし幕府がいち早く合議制を取り入れていたならば・・・。もしそうならばこの日本はどうなっていたのだろうか?考えても無意味かもしれないが、そんなことに思いを馳せるのもおもしろい。◆さて、この流れのなかでいう正義は何なのか?誰が正義を守ったのか?広辞苑によると正義とは「正しいみちすじ。人がふみ行うべき正しい道」とある。明治維新は薩長土肥が中心的に行われたと、教科書的に表現するとそうなるのかもしれない。そうすると明治維新の正義は薩長土肥側にあることになる。◆それがまさしく一般的な明治維新の歴史観ではないだろうか?新しいものが古い体制を倒した、だからそれが正義だと。なんだか広島長崎に原爆を投下されたのは戦争を終わらせるのに有効であった・・そんな考えに似ているような気がする。◆明治維新を別の角度から俯瞰してみると、こんな見方はできないだろうか。長州と薩摩は単に天下を取りたかったのではないか。戦国の世のような考え方が抜けずにいたように思う。徳川に変わって天下を取る、それこそがまさしく一番の目標ではなかったのか。正義は後から付いてくる、まずは天下を取ること・・・・。そして歴史は薩長側を正義、幕府側を悪と位置づける。そのような印象を私たちは知らず知らずのうちに受け入れている。◆このことはあくまでも印象であって、実際にはこちらが正義、こちら側が悪と割り切れるものではないのであろう。ただ言えることは、「戦争」とは勝敗がすべてであるということ。「悪は滅びる」のでなく、「負けた方が悪である」ということ。私たちが60数年前に戦争で敗れた時のように。◆歴史の真実はどこにあるのか?それは一面だけの判断で理解できることではないだろう。色々な面の究明が必要であり、そしてすべての面を理解することから始まる。その歴史認識を明確にすることはどれほど困難なことなのか・・・。贔屓で考えるのではなく、客観的な事実の積み重ねで認識をしていくことが大切なのだろう。でもそのことがどれほど厄介なことなのか。私たちがどこかの国や組織に所属して、そしてその国や組織を愛していればいるほど、客観的な認識が難しくだろう。◆日本国民としてそんなことを考える日が近づいてきました。年に一度ぐらいそんなことを客観的に考えてみるのも悪くないでしょう、この国を愛すればこそ・・・。
ちなみに原爆投下はどんなに理由をつけても正義ではないだろう、悪そのものだろう。