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信長を苦しめた男達~第三次信長包囲網~ⅱ

それにしても織田信長、「どこまで嫌われているんだよ」とツッコミたくなってしまうくらい敵が多い。そして、裏切りも多い。対立や裏切りは戦国時代には当然のことだったが、信長の嫌われっぷり、裏切られっぷりは少しかわいそうになるくらいだ。思いつくだけでも箇条書きにしてみると…
・実弟の信行にバカ扱いされ家督を狙われて対立。
・信行の家臣が信長側に寝返ったため重用していたのに、「やっぱり信行様のほうが…」と謀反を画策される。
・傀儡にしようと思って擁立した将軍にコソコソ画策されて信長包囲網を形成される。そしてそれに応える武将多数。
・外交手段にと温存していた美人な妹を嫁に出してまで味方にし、可愛がっていた義弟に「昔からの同盟のほうが大事だから」と裏切られる
・一度謀反を起こした家臣(松永久秀)を許したのに、また謀反を起こされる。
・織田軍の団長にするほど重用した重臣に反旗を翻される。
・贈り物をしまくって「これでうちがすることには目を瞑っていてください」とペコペコしていた相手(武田信玄や上杉謙信)に挙兵される
・信頼していた重臣・明智光秀に謀反を起こされて殺される。
このように信長は何度も家臣や同盟国から裏切られている。しかし、“冷酷・残忍”というイメージを持たれている信長、実はそんな裏切り者を許すことも多かった。先に述べた松永久秀などは二度目の裏切りの際にも「平蜘蛛(有名な茶器)を渡したら許してやる」と言っている(松永はそれに反して平蜘蛛もろとも爆死してしまったのだが…)。また、信長がかなりショックを受けた裏切りの相手・浅井長政に対しても、再三降伏するように勧めている。お市の方の身を案じたこともあるだろうが、長政を高く評価していたこともあるのだろう。その他には、鬼の柴田で知られる信長の重臣・柴田勝家も、元は信長と家督争いをした信行の家臣だったところを信長に許され、召し抱えられた人物である。おそらく信長は、「たとえ謀反を起こすような奴でも、有能な人材は手元に置いておきたい」という考えだったのではないだろうか。そのせいで周りを固められて四面楚歌状態になったとしても、それを打ち砕く運も力もあったため、信長は戦国時代を生き抜いてこれたのだろう。

それにしても、三日天下と言われた光秀をはじめ、信長を倒そうと躍起になっていた多くの武将たちが天下を取れず、結局天下を統一したのは信長を一度も裏切ることなく尽くした羽柴秀吉と徳川家康であったという事実は、二人に天下人としての器があったとはいえ、何か運命のいたずらのようにも感じてしまう。

信長を苦しめた男達~第三次信長包囲網~ⅰ

武田信玄の死をきっかけに厄介だった将軍・義昭や越前の朝倉氏、近江の浅井長政を退け、第二次信長包囲網の瓦解に成功した信長だったが、まだ危機を脱したわけではなかった。信長にとって特に厄介な敵である石山本願寺とは決着が着いていないし、武田氏も、信玄は死んだものの息子の勝頼も有能な武将である為油断はできない。義明も、追放したものの将軍の地位を剥奪したわけではない。そして案の定、義昭がまた画策するのである。

今度の義明の呼びかけに応じたのは、いつものように本願寺。そして武田氏、中国の毛利氏、そして越後の上杉謙信までもが反信長の旗を掲げたのだ。本願寺だけでも厄介な敵であるのに、長年武田信玄と争った上決着の着かなかった程の強さを持つ上杉謙信まで加わってしまった今回の包囲網も、信長を苦しめた。本願寺との戦いでは信長自身も負傷するなど苦戦を強いられ、優勢に立ったと思ったところで上杉や毛利が本願寺を援護したり謀反が起きたりと、信長はさぞイライラさせられたことだろう。

しかし、この包囲網もまた、ある人物の死によって綻びを見せる。上杉謙信である。ライバル武田信玄同様、信長との戦いが続く中病死してしまったのだ。これによって起こった家督争いによって上杉氏は後退し、信長に有利な戦況となった。上杉氏同様本願寺へ補給を行っていた毛利氏にも勝利して補給路を絶ったことによって、本願寺はようやく陥落。武田氏も新当主勝頼が自害したことで陥落。残るは辛うじて戦いを続けているものの劣勢に立たされている上杉と毛利のみ。となったところで、なんと信長は本能寺の変で明智光秀に倒されてしまった。こうして、三次にまで渡った信長包囲網は、側近の裏切りという意外な形で幕を閉じたのだった。                                   ……つづく

信長を苦しめた男達~第二次信長包囲網~ⅱ

つづき……
一方、三河に侵攻していた信玄の足が止まる。かねてより持病を患っていた信玄が死去したのだ。この信玄の死は「三年は死を隠せ」という信玄の遺言によって伏せられていた。そのため、信玄の死を知らない義昭は「自分のバックには信玄がついている」

と思い、講和からわずか3ヶ月で再び信長を攻めようと挙兵する。しかし、待てど暮らせど信玄は信長を攻めない。そして篭城していた義昭は信長に攻め込まれ、追放されてしまう。

義昭を追放した信長は、その勢いのまま小谷城を包囲して浅井氏を追い込むと、援軍に来た後密かに撤退しようとした朝倉軍を追撃。越前まで攻め入ると、当主・朝倉義景を自害に追い込み、そのまま小谷城に攻め入って浅井長政も自害に追い込んだ。こうして、信玄の死をきっかけに第二次信長包囲網は崩壊したのだった。

もしも信玄が病気でなかったら、信玄は信長を倒して京へ上洛を果たしていたかもしれない。おそらく信玄にとっても、最期の侵攻は自分の体が保つかどうかの賭けだったのではないだろうか。信玄亡き後、武田家の勢力を維持できる程の力量が息子の勝頼に無いと思ったからこそ、最後に武田家にとって邪魔となる家康や信長を排除しようと動いたのかもしれない。信玄が自らの死を三年は秘すように命じたのも、自らの死後、武田家がどうなるか予想できたからだろう。その後、平安時代から続いた武田家は勝頼の代で滅びることとなる。

そもそも、越後の上杉謙信がいなければ、信玄はとっくに天下を統一していたかもしれない。信玄が病気でなければ、勝頼に信玄に劣らない力量があったら…様々な要因で、武田氏は信長に勝つことができなかった。逆にいえば、そこまで多勢に包囲されながらも生き延びた信長は、実力だけでなく運にも恵まれたということなのだろう。

信長を苦しめた男達~第二次信長包囲網~ⅰ

第一次信長包囲網が瓦解し危機を脱した信長であったが、反信長勢力がいなくなったわけではない。信長のおかげで将軍になれた足利義昭でさえも、実は反信長勢力の一人。せっかく将軍になったのに信長に利用されるばかりで権力など無い状態に不満を抱いた義昭は、反信長勢力に密書を送るなどして打倒信長の機を狙っていた。浅井氏・朝倉氏・三好三人衆・石山本願寺・延暦寺・六角氏などがこれに乗って反信長の旗色を示し、第二次信長包囲網が築かれた。これにより、信長はその鎮圧に奔走することとなる。

まずは近江の佐和山城を落とし、本願寺方の長島一向一揆を制圧。そして有名な比叡山延暦寺の焼き討ち(女子供まで容赦なく大虐殺したと言われる延暦寺の焼き討ちだが、近年、延暦寺には人がほとんどいなかったのではないかと言われている)を行って反信長勢力を潰していった信長だが、松永久秀などの家臣の裏切りにも遭い、「あっちを倒してもまたこっちから敵が出てくる」という余裕の無い状態であった。それでも少しずつ制圧し、包囲網を崩していった信長だったが、ついに戦国最強と恐れられる甲斐の武田信玄が挙兵する(ただし、挙兵の理由は定かではない)。かねてより信玄に狙われていた同盟国である三河の徳川家康の危機であったため援軍を送った信長であったが、三方ヶ原の戦いで徳川軍と共に惨敗する。家康の空城の計(あえて城の門を開けて敵を招き入れるようにすることで、逆に敵に警戒させて退却させる策)でかろうじて浜松城を取られずに済んだが、徳川・織田は窮地に立たされてしまう。

この状況を喜んだのが、将軍・義昭。「信長やられた!今がチャンス!」と挙兵。遂にこれまでの密かな反抗ではなく、明確に反信長の意思を示したのだった。講話を申し入れた信長だったが、義明はこれを拒否。そこで信長は京へ向け出兵するものの、天皇の命によって講話することとなる。                   …つづく