月別アーカイブ: 2014年12月

信長を苦しめた男達~第一次信長包囲網~

戦国武将と聞いて多くの人がまず思いつくのが織田信長だろう。天下統一を目前に家臣である明智光秀に討たれた信長だが、その本能寺の変以前にも何度が窮地に陥ったことがある。その中でも特に信長が苦しめられたのが、各国の反信長勢力による蜂起―“信長包囲網”が敷かれた時である。

次々と勢力を拡大していき、将軍を擁して京への上洛を果たした信長。時の将軍足利義昭を傀儡にし、将軍の後見人として益々権威を振るうようになった。そんな折、将軍の名目で信長上洛に合わせて各地の大名にも上洛するよう促したところ、越前の朝倉義景がそれを無視するという事件が起きた。将軍家との親交が深い朝倉家が、将軍の命令を無視してまで上洛しなかったということは、信長への反抗の意思表示ということである。これに怒った信長は、朝倉討伐のため越前に向けて遠征したのだが、途中の金ケ崎で、盟友であった北近江の浅井長政の挙兵が発覚した。この浅井長政、信長の妹のお市の方を妻とする、信長の義弟で信長からの信頼も厚い人物だった。しかし、信長との関係が強い一方で朝倉氏とも長年の盟友関係であったため、同盟の際に「朝倉と対立しない」という条件を付けていたのだ。しかし、信長はそれを破って朝倉攻めを実行。信長としては、長政が板挟みにならないよう配慮し、「今回の朝倉討伐に浅井は無関係」と思わせるために浅井家に了承を得ず朝倉攻めをしたと言われているが、同盟国同士が争っているのに我関せずではいられないもの。悩んだ長政は古くからの恩を重要視する父・久政からの勧めもあり、「朝倉と対立しない」という約定を無視し、同盟関係を反故にしたのは信長の方だと判断。信長に反旗を翻したのだった。

この時、お市の方が信長に両方の口を縛った袋に入れた小豆を陣中見舞いとして送り「袋のねずみ」=長政が裏切って信長を挟み撃ちにしようとしていると知らせたと言われている。長政の裏切りを知った信長は大勢の兵を置いて大急ぎで美濃へ退却。これを金ケ崎の退き口という。この時殿軍を務めた秀吉はひと月も掛けて必死で逃げ帰り、名を挙げることとなる。

辛くも難を逃れた信長は、目をかけていた義弟に裏切られたことで激怒。元亀元年(1570年)4月に金ヶ崎を撤退した信長は、同年6月に姉川の戦いで浅井・朝倉軍を撃破。浅井・朝倉の行動範囲を狭めることに成功した信長だったが、この機に乗じて信長を討とうとする勢力が信長を苦しめはじめた。まず、8月に三好三人衆が反信長を掲げて摂津で挙兵。それを叩こうと挙兵した信長を、石山本願寺の法王・顕如が攻撃し、さらには浅井・朝倉軍も再挙兵。加えて以前からにらみ合っている近江の六角氏もいるという、四面楚歌状態。第一次信長包囲網と呼ばれるこの包囲状態によって、信長は重臣・森可成(信長の小姓として本能寺で最期を共にしたことで有名な森蘭丸の父)、信長の弟の信治が討ち死にするなどの痛手を負ったものの、雪が降ると侵攻が難しくなる浅井・朝倉と12月に朝廷や将軍の手を借りて和睦することに成功し、第一次信長包囲網は瓦解することとなった。

越前指物

福井県、越前は越前ガニをはじめとする様々な海産物が有名であるが、伝統工芸品も有名なものが多数ある。越前指物もその一つである。指物というのは、釘などの接合具を使わずに板と板、板と棒、棒と棒を組み、さし合わせる仕事のこと、またその技法を使って作られた箪笥や什器、調度品、建具などの製品のことをいう。越前市には「タンス町」があるほど家具、建具の製造販売が盛んなのだという。国指定伝統的工芸品の越前箪笥や武生箪笥、武生唐木工芸、武生唐木指物などが有名である。越前箪笥はケヤキやキリなどの無垢材を主な材料として作られる箪笥で衣装箪笥、帳場箪笥、水越屋箪笥、手許箪笥などとして使われている。伝統の指物技術で組み立てられ表面に漆をかけて鉄製の金具を取り付ける重厚なつくりの箪笥であるが、それでいてどこか素朴で心のこもった仕上がりの箪笥であると評されることがある。越前では幕末から明治初期にかけて多くの指物師が活躍し、また明治末期から大正初期ごろには製造業といわれる企業体制が成立したといわれている。越前武生の木工(指物)の歴史は古く、江戸時代から明治初期に能面などの工芸的な仕事をしていたものや農業の中の器用なものがお膳風呂、板戸などを作っていたのだが、そのうちにこれが専業化されていって指物師として旦那衆の家に出入りするようになったのが始まりだという。平成25年には「越前箪笥」が国指定伝統的工芸品にも指定されるなど、その伝統は今でもなお受け継がれている。また、「木のぬくもり」「手作り」「本物の良さ」を基本に伝統技術、技法を代々伝承していっている一方で新しい商品の開発に取り組むなどしてさらなる越前指物の発展も図られている。古くからその地方に伝わる伝統を代々受け継いでいくことはとても重要なことであるが、ただ伝統をそのまま次の世代に伝えていくだけでなく、自分たちの世代で昔の人々が作り上げてきた技術を使用し、さらにすぐれたものを作り上げていこうという精神がとてもすばらしいように思う。

理想の上司!?松平春嶽ⅱ

人の上に立つ人物にも関わらず自分を無能だと言ってしまえる春嶽の謙虚さが、多くの才能を見出し、日本を変えるきっかけの一つになったと言えるでしょう。実際春嶽は江戸幕府政治総裁職という重役に就いているときに、ただの脱藩浪士に過ぎなかった坂本龍馬と面会し(どのような伝手で面会したのかは不明)、勝海舟への紹介状を渡したという記録が残っています。春嶽はまさしく、幕末の日本のキーパーソンの一人だったのです。

春嶽の元には、先述した中根雪江をはじめ、由利公正、橋本左内、横井小楠といった革新的思想を持つ才能溢れる人物が側近として重用されていました。彼らにとって春嶽は、身分などに捉われず意見をきちんと聞いて、考え、判断してくれる、非常に仕えがいのある主君だったのではないでしょうか。現代の会社組織に置き換えれば、新人の意見にも軽んじることなく耳を傾け、良いと思えばきちんと評価し、ポストを与えてくれる。しかも成果を上げても「私は皆の意見を聞いているだけだよ。」と謙虚な上司…といったところでしょうか。こんな上司なら、人材が伸びる良い会社になりそう。私もこんな上司に仕えてみたいと思ってしまいます。

理想の上司!?松平春嶽ⅰ

才能を見抜いて活かす名君の目”松平春嶽”
ペリー来航で国中が大混乱に陥り、「攘夷!?開国!?どうすればいいんだ!?」と幕府でも各藩でも意見が入り乱れていた幕末。そんな中で確固たる指針を持って積極的に動いていた藩の一つが越前藩でした。そんな越前藩を動かしていたのが、藩主松平春嶽(慶永)。春嶽は土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城(むねなり)とともに四賢候に数えられるなど、名君として有名です。越前藩は開国派として活躍した藩ですが、実は春嶽、元々は攘夷論者でした。ではなぜ攘夷論者であった春嶽が開国論者に変わったのか?そこに、春嶽が名君たる理由があるのです。
元は攘夷論者であった春嶽を開国論者に変えさせたのは、側近の中根雪江でした。攘夷論者である藩主に開国論を唱える中根もなかなかですが、部下に言われて「それいいね!」と意見を変えてしまえる春嶽は、この時代には珍しいほど柔軟な人物でした。かといってただ単に人の意見に左右されやすく、自分の意見の無い人というわけではありません。
そんな春嶽の有名な座右の銘が以下の文。

『自ら反(かえり)みて縮(なお)からずんば 褐寛博(かつはんばく)と雖(いえど)も吾懼(おそ)れざらんや。自ら反みて縮かれば 千万人と雖も吾往いかん』

これは孟子の書に「孔子が語った言葉」として書かれているものです。現代語に訳すと「自らを省みて反省するところがあるならば、相手が卑しい身分の者であっても恐れる。自らを省みて反省することが無いならば、相手が千万人といえども私は立ち向かう」といった意味になります。つまり、「自分が間違っていると感じれば反省し立ち止まり、自分が正しいと感じれば突き進む」と春嶽は言っているのです。
また春嶽は「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ(自分には才能も知恵も不思議な力もない。常に人々の意見を聞き、良いと思うことに従うだけだ)」という言葉も残しています。
…つづく