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橋本左内に学ぶⅳ

さて家定が将軍に就いてから始まった継嗣問題は、5年後の安政5年に突如として終わりを告げました。彦根藩主井伊直弼が大老職に就き、独断で世継ぎを慶福に決めてしまったのです。更に井伊は勅許の無いままアメリカと不平等条約である日米修好通商条約を結んでしまいました。

これに怒った慶喜、春嶽、斉昭らは登城して井伊を詰問しましたが、不時登城として謹慎処分に処されました(慶喜は登城日だったにも関わらず)。ここから安政の大獄が始まります。井伊はその後一橋派を次々と弾圧し、百名以上を処罰しました。

このとき、共に奔走した西郷隆盛は奄美大島へ逃げ延びることができましたが、継嗣問題に関わった罪で左内は逮捕されてしまいます。そして小塚原刑場で斬首となってしまいました。おそらく継嗣問題以外にも討幕派ではないものの幕府の独断ではない政治を唱えたことも原因だったのではないでしょうか。西郷は左内の死を嘆き、後に西南戦争で亡くなった際には懐から20年以上前の左内からの手紙が見つかったそうです。

左内の処刑から1年半程経った安政7年に桜田門外の変で井伊が水戸の浪士に殺害され、安政の大獄は終わりを告げました。井伊は井伊で、左内同様「国が一大事の時に世継ぎ問題などで揺れている時ではない」と思い、慶福を将軍にと決定したのかもしれません。修好通商条約も、頑なに拒否し続けて多くの国から狙われるよりも、新米に絞ったほうが良いという考えだったとも言われています。国内の混乱を避けるために反対派を一斉に弾圧したとも言われていますが、そうだとしても酷い弾圧であったと言えるでしょう。

もしも左内が安政の大獄で処罰されなかったら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。しかし、左内の目指した国の形は残された人々に受け継がれ、左内と志を同じくするもの達の活躍によって日本は欧米列強の植民地とならずに済みました。

現在の日本も財政問題や憲法改正、TPP、隣国との問題など、様々な内政・外交問題によって混乱状態にあります。もし左内が今の日本を見たら何と言うでしょうか…。現在は選挙の投票率も下がり、政治に無関心な若者が増えています。また、愛国心を持つと「右傾化だ!」と言われるような風潮にもあるように感じます。先進国だと驕らず、敗戦国だと卑下せず、左内やその同志のように、「日本はこうあるべきだ!」という強い志や国を憂う心をもった若者が増えなければ、日本は発展せず他国に追い抜かれる一方になってしまうのではないでしょうか。現代の若者にこそ、幕末に命がけで国を守ろうとした橋本左内のような人々のことを深く知ってほしいと願います。

橋本左内に学ぶⅲ

前回は橋本左内の優秀さや人間性についてお話しましたが、今回は「橋本左内は何をした人で、なぜ処刑されたのか」についてお話します。

適塾で学んだ後、左内は越前福井藩主・松平春嶽に認められ、藩医、御書院番(藩主直属の親衛隊)、藩校学監となるなど、藩政を助けていきました。

その頃の江戸幕府将軍は徳川家定。この家定は病弱で、世継ぎもいませんでした。となると出てくるのがお世継ぎ問題。次の将軍にふさわしいのは誰か?となったとき、二人の候補が上がりました。一人は11代将軍家斉の孫で紀州徳川家徳川斉順の嫡男徳川慶福(後の徳川家茂)。もう一人は水戸藩主徳川斉昭の7男で御三卿の一橋家の養子となって一橋家当主となった一橋慶喜(後の徳川慶喜)。慶福は7歳と幼年なものの、家定とは従兄弟ということで将軍に一番血筋が近い人物でした。対して慶喜は16歳。その才覚も評価されていたものの、血筋としては少し遠い人物でした。この慶福派(南紀派)と慶喜派(一橋派)に分かれて将軍継嗣問題が勃発しました。

このとき一橋派の中心となって動いていたのが福井藩主松平春嶽でした。左内は春嶽の懐刀として、同じく一橋派の中心人物である薩摩藩主島津斉昭の重臣西郷隆盛と共に奔走しました。当時はちょうど黒船が来航し開国を迫られている時期だったため、血筋が近いが幼い慶福よりも、血筋は多少遠いが優秀な慶喜を将軍として国を守ろうというのが一橋派の考えでした。

実は春嶽、元はかなりの攘夷論者だったのですが、開国論者である左内の影響によって開国派に回ったのでした。そんな左内の開国論はとても革新的で、「今の日本の力では独立を保つことは不可能。このままでは日本は他国同様植民地にされてしまう。満州や朝鮮を合併し、強国ロシアと同盟を組み、富国強兵の改革をしなければならない。そして強国から指導者を招いて遅れている分野を発展させなければならない。今は日本が一丸となって事に当たるときであり、多少の嫌疑(将軍継嗣問題など)に拘っている場合ではない。」というものでした。左内にとって将軍継嗣問題は「開国に関わる些細な問題であり、さっさと解決して日本を守るために一丸となって動きたいという思いが一番。けれど、リーダーは優秀な人物でなければならないので一橋派として尽力する。」という感じだったのでしょう。それに対して南紀派は「まだ子ども?関係ない!(むしろ扱いやすいし。)血筋が一番でしょ!」という感じだったのでしょうから左内はイライラしたことでしょうね。
熱い一橋派の面々に対し、当の慶喜はあまり乗り気ではなかったようですし、幼い慶福はなおさら将軍になりたいと強く望むことはなかったでしょうが、そんな当事者の気持ちなど無視したまま争いは加熱していきました。
この続きは次回と致しましょう…