月別アーカイブ: 2013年12月

2013年7月号

今月も明治維新について思うことを少々。江戸末期から明治四年ぐらいまでの間を一般的に俯瞰してみるとこうなるのではないだろうか。ペリーの来航により水戸の勤王思想と外国を打ち払えという攘夷が合体して尊皇攘夷運動となる。幕府だけが開国に積極的であった。すべての国民(実際には武士と呼ばれていた人たち)がその運動に参加しようとする。その結果、幕府からは強い粛清が行われる(安政の大獄)。この頃に咸臨丸が太平洋を横断している。すなわち最も保守的である幕府が日本では一番開明的であった。ところが数年を経過して尊皇攘夷がいつの間にか倒幕運動に変化していった。最も開明的で最も勤王の精神をもち最も先進的な幕府に、尊皇攘夷という最も非現実的な思想の諸藩が追いつめることになる。一般的には封建制という日本の旧体制への批判が倒幕と考えられる。そして賊軍となっていた長州や薩摩が勝者となり、天皇に対して最も忠誠を誓っていた会津などの幕府側は敗者となった(戊辰戦争)。勝てば官軍とはまさにこのこと。そして新しい日本が生まれることになる。◆歴史には「もし」はないが、もし幕府側が仮想敵国を黒船ではなく国内のある藩だと想定したなら、もし幕府が最新式の銃を手に入れていたなら、もし幕府がいち早く合議制を取り入れていたならば・・・。もしそうならばこの日本はどうなっていたのだろうか?考えても無意味かもしれないが、そんなことに思いを馳せるのもおもしろい。◆さて、この流れのなかでいう正義は何なのか?誰が正義を守ったのか?広辞苑によると正義とは「正しいみちすじ。人がふみ行うべき正しい道」とある。明治維新は薩長土肥が中心的に行われたと、教科書的に表現するとそうなるのかもしれない。そうすると明治維新の正義は薩長土肥側にあることになる。◆それがまさしく一般的な明治維新の歴史観ではないだろうか?新しいものが古い体制を倒した、だからそれが正義だと。なんだか広島長崎に原爆を投下されたのは戦争を終わらせるのに有効であった・・そんな考えに似ているような気がする。◆明治維新を別の角度から俯瞰してみると、こんな見方はできないだろうか。長州と薩摩は単に天下を取りたかったのではないか。戦国の世のような考え方が抜けずにいたように思う。徳川に変わって天下を取る、それこそがまさしく一番の目標ではなかったのか。正義は後から付いてくる、まずは天下を取ること・・・・。そして歴史は薩長側を正義、幕府側を悪と位置づける。そのような印象を私たちは知らず知らずのうちに受け入れている。◆このことはあくまでも印象であって、実際にはこちらが正義、こちら側が悪と割り切れるものではないのであろう。ただ言えることは、「戦争」とは勝敗がすべてであるということ。「悪は滅びる」のでなく、「負けた方が悪である」ということ。私たちが60数年前に戦争で敗れた時のように。◆歴史の真実はどこにあるのか?それは一面だけの判断で理解できることではないだろう。色々な面の究明が必要であり、そしてすべての面を理解することから始まる。その歴史認識を明確にすることはどれほど困難なことなのか・・・。贔屓で考えるのではなく、客観的な事実の積み重ねで認識をしていくことが大切なのだろう。でもそのことがどれほど厄介なことなのか。私たちがどこかの国や組織に所属して、そしてその国や組織を愛していればいるほど、客観的な認識が難しくだろう。◆日本国民としてそんなことを考える日が近づいてきました。年に一度ぐらいそんなことを客観的に考えてみるのも悪くないでしょう、この国を愛すればこそ・・・。

 

 

 

ちなみに原爆投下はどんなに理由をつけても正義ではないだろう、悪そのものだろう。

2013年6月号

日曜日の夜八時からのお楽しみに、大河ドラマ「八重の桜」。4月末現在では八重が主人公というよりも明治維新そのものを会津の立場から描いている。「会津から見た明治維新」という感じ。それはそれでとても新鮮な感じがする。◆明治維新といえばどうしても司馬遼太郎の視点で見てしまう。すなわちヒーローが登場する。吉田松陰、坂本龍馬に西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、高杉晋作ときら星のごとく英雄がいる。あるいは新撰組もある意味英雄なのかもしれない。それら英雄を軸に明治維新が動いていく。それが普通になっていた。◆しかしこのドラマは、会津藩そのものや藩主の松平容保などの視点から明治維新を俯瞰している。例えば孝明天皇が容保のことを信頼しているところが、ことのほか綿密に描かれていたりする。あるいは八重の兄覚馬と吉田松陰、勝海舟などとの絡みがおもしろい。◆これから明治維新の佳境に入っていく。蛤御門の変から第一次長州征伐へと続く。その後、薩長同盟が成立する。(そのシーンで仲介した坂本龍馬のことを「土佐の浪人が・・」とナレーションで流れたことにはちょっとびっくり。それはこのドラマにはヒーローは必要ないというメッセージか・・)幕府軍が第二次長州征伐で破れる。大政奉還、王政復古と続く。そして戊辰戦争が没発。◆この時点で会津は賊軍となる。孝明天皇のためにつくしてきたのに、会津と薩摩の策略により賊軍となり会津戦争へと話は進む。◆そこから主人公である八重の出番が回ってくるようだ。鶴ヶ城に500人の女性たちと立てこもり、銃をもって戦った。故に後に「幕末のジャンヌダルク」と讃えられることになる。維新後は新島襄の妻となり、男尊女卑の世の中で時代の最先端を行く「ハンサムウーマン」となっていく。そして看護婦として日清戦争、日露戦争に同行して「日本のナイチンゲール」と呼ばれることになる。◆そんなドラマを私は毎週楽しみにしている。視聴率はあまり良くないらしいが、そんなことはどうでもいい、自分がおもしろいと思えたならそれで満足している。人がおもしろいと言っているから見るのではなく、自分が見ているのがおもしろいと思えればそれでいい。◆ところで明治維新の話にもどす。会津は会津戦争で破れたあと、藩士たちはどのような運命をたどったのかあまり知られていない。明治三年に一部(およそ15000人)の人たちは南部に移った。その場所を斗南藩とする。そこでの生活は農業に適さない土地ということもあり、苦難の連続であった。そして明治四年廃藩置県となる。それに伴いほとんどの人がその斗南を去っていった。◆そして現在、山口県と福島県の不仲がまことしやかに伝えられる。確かに会津がそこまで徹底的に攻められ、そして戦後もできるだけ地方に追いやる姿勢は理不尽極まりなく思う。まさに「勝てば官軍」で、長州が京都御所に発砲したことから端を発しているにもかかわらず、偽の錦の御旗をたてて官軍となり実際に勝利をつかむ。だから両県には未だに不仲説があるらしい。◆歴史に「もし」はないが・・もし幕府側が勝利していたら、福島から多くの総理大臣が輩出していたかもしれない・・・なんて考えるのも歴史を考える醍醐味かも。(ちなみに総理大臣は山口県から8人、福島県から0人です)

2013年5月号

右のポケットに手を突っ込んでみた。何か硬貨のような丸い硬いものが手に当たった。全く記憶にない500円玉だった。そんな時、得したような気分になり少しだけ幸せな気分になりませんか?◆人混みで向かいから一人の人が歩いてきた。前を向いてない。携帯をさわっている。あれあれと思う内に肩がぶつかってしまった。そのときにその人は「ごめんなさい、申し訳ない」と謝罪してくれた。当たり前のことだけど、とてもほんわかした気分になりませんか?◆ラーメンが食べたいなと時折思う。そう思った瞬間に目の前にラーメン屋さんがあった。そしてそのラーメン屋さんがまた飛び抜けてうまかった。そんなときやったーと思ってプチ幸福感を感じませんか?◆部屋の中を整理整頓しているとき自分の思うように片づいた。ネクタイを締めたとき一発でぴったりの位置で締めることができた。暗がりで家の鍵穴にカギを差し込むとき、ドンピシャで鍵穴にカギは入った。こんな時って結構幸せに感じませんか?◆毎日車で通っている道路がある。そこを通行していていつも必ず赤で停車してしまう信号がある。でもその日はなんとすんなりと通行できたではないか。そんな時は思わず笑みがこぼれてしまう。◆車の渋滞中に自分の前で割り込もうとしている人がいる。その人のために前を空けてあげる。そのときその人が顔をこちらに向けて頭を下げていた。口元で「ありがとうございました」と言っているのが分かった。そんなときつい口にだして「いえいえどういたしまして・・・」と。自分の車の中はホッコリ、心の中もホッコリ。◆人は誰でもが幸せになりたいと願う。実は幸せは特別なことではなく、毎日の生活の中に何度も何度も出現しているはず。気の合う仲間と時間を共有できるとき。少しだけ美味しいものを食べているとき。本を読んで感動をしたとき。素敵な人に出会ったとき。そんなときも幸せを感じる瞬間ではないだろうか。それを「自分は幸せだ」と感じることが幸福度アップに繋がるのではないだろうか。◆しかし受け取るばかりではなく、自ら進んで小さな幸せを感じることはできないだろうか。例えば・・・◆人混みでぶつかったらこちらから「ごめんなさい」と頭を下げる。道を譲ってもらったら「ありがとう」と車の中で声を出してみる。電車の中でお年寄りに席を譲る。人が困っていたら「どうしましたか?」と積極的に声をかけてあげる。そうすると相手の人が幸せに感じてくれる。そして自分もなんだかホッコリとした気分になり幸福になる。◆「幸福感」というのはいただくものではなく、実は差し上げるなかで生まれるものではないのか。自分の気持ちを差し上げる時、自分の勇気や時間を差し上げるとき、そんな時に幸福を感じるのではないのだろうか。◆そうだとしたら私はもっともっと被災地に自分の時間を差し出さなければいけない。自分の気持ちを持って行かなければいけない。被災地のために何かをすることが、実は自分の幸福にも繋がることなのかもしれない。それは自己満足とも呼ばれる。すなわち自己満足と幸福感とは同義語なのか。それならそれでいいではないか、愛他精神であるならば・・・・。

2013年4月号

この狭い日本の国土に空港の数は100近くあるらしい。そのほとんどが自治体が運営している。そして大半が赤字とのこと。地方空港のほとんどは地元住民の反対を押し切って行政が推し進めた。県や市町村がビジネス需要を見込んだり、野菜などの生鮮物を都会にいち早く運搬できるとしたり、様々な理由により半ば強引に開港していった。◆その結果、何がもたらされたのか?地方の県民にとってどんなメリットが存在しているのか?例えば新潟空港のこと。新潟空港は欧州からチューリップの球根を輸入する拠点として期待された。ところが冷凍技術の発達で、その輸入球根は船便に変わってしまった。かりにチューリップの球根が順調に輸入が伸ばせても、それが地元民にとってどんなメリットがあるのか?たとえ収支が黒字になっても、私たちの生活には何が関係あるのか?◆東京までいくのに早くいける、だからビジネスや観光にはメリットが大きい、かもしれない。でも実際にそこにメリットがあるのなら、現状としてかなり黒字の路線があるはずだが。◆もし赤字となったら・・・。そのときは私たちの生活に大きく関わってくる。増税という形で負担を強いられることになるだろう。にも関わらず、全く必要のないような場所に空港を作ると決断した人は今何処にいるのだろうか。その人達の責任はどう取るのだろうか?◆公共事業の中でも空港建設は特殊だと思う。一般道路や高速道路を造ったり、ダムを新設したり、新幹線を施工したり・・・公共事業の中には無駄なものがあるとわかっていても、どこかに私たちの日常に役に立っていると納得できる部分がある。ないならないでもいいが、あればあるでそれなりの存在となりうる。生活のどこかに何らかの恩恵を被る。でも空港はどうだろう。この空港ができて恩恵を被る人の数はどれだけの人なのか・・。それよりも自然破壊があり、そして騒音などの公害に悩まされる人の数の方が多いのではないのか。◆確かに建設当時には多くの雇用が生まれただろう。それなりの経済効果もあったと思う。しかし年月を経て赤字なれば、おそらくこれから閉鎖をしない限り赤字を垂れ流し続けることになるだろう。それを阻止するために民営化を進めていく方向にあるようだ。たとえ民営化を進めても、果たして黒字化となるのだろうか。コスト削減に対してはそれなりの効果があるかもしれないが、実際の需要の面からするとさほど大きな期待ができないのではないだろうか。何しろこの狭い日本だから。◆それにも関わらず、この空港建設に関する責任問題が取りざたされたという話を聞いたことがない。政治家は一時のムードで票を集め、それを民意として政治をする。地方自治体としても同じこと。民意だから正しいという前提で前進していく。しかし、この空港のようにもし失敗したら、「民意が間違っていました」といって幕引きとなる。そのときの責任追求をしないがままに・・。一時の箱物行政のように。◆私は、今、とても心配していることがある。2020年の東京オリンピックへの招致のこと。巨大公共事業が果たして正解なのかどうか?そしてその後、バブルが到来してその後に日本の経済が破綻をしたなら、そのときは誰が責任を取るのだろうか・・・・ちょっと心配しすぎなかな。

2013年3月号

「自律神経」を広辞苑で引くと・・意志とは無関係に、血管・内臓・汗腺などを支配し、生体の植物的機能を自動的に調節する神経。交感神経と副交感神経とがあり、その中枢は脊髄と脳幹にある・・・と記されている。その交感神経と副交感神経が我々生きる上でとても大事なものであるらしい。最近、そのことについて書かれた『なぜ、「これ」は健康にいいのか?』という本を読んだ。今日はその本の内容についての話をしたい。抜粋が多くなることはご容赦ねがいたい。◆「交感神経が体を支配すると体はアクティブになり、副交感神経が支配すると体はリラックスした状態になる」。今まではこのように説明されていたらしい。しかし著者は、「体が最もよい状態で機能するのは、実は、交感神経も副交感神経も両方高いレベルで活動している状態のときだった」としている。要するにそのバランスが大切だと言っている。「交感神経が優位な状態にしても、副交感神経が優位な状態にしても、自律神経活動高さとバランスがもっとも理想的な状態にあるとき、それが、私たちの心身がもっとも健康で、心身のパワーを最大限に発揮できる状態」だそうだ。◆従って、交感神経活動レベルが異常に高く、副交感神経レベルが極めて低いときは病気にかかりやすく、逆の場合はうつ病の傾向にあるという。また両方とも活動レベルが低い場合は、疲れやすく、やる気も起きない状態らしい。さて、この交感神経と副交感神経のバランスを保つにはどうすればいいのか?◆まずは睡眠をしっかりとること。睡眠不足は自律神経の大敵。「睡眠不足は副交感神経のレベルを低下させ、自律神経のバランスを悪くさせる。自律神経のバランスが崩れると、血流が悪くなるので身体機能が低下する」。長時間寝ないで勉強しても能率が悪くなるのは、血流の低下によって脳の機能が低下するからと著者はいう。◆一日に食事は三回とった方がいいらしい。「一日に一回しか食事をしないということは、一日に一回しか腸に刺激を与えないということなので、腸の動きが悪くなってしまう」。特に朝食はついつい抜きがちになってしまうが、この著者は朝食の重要性を説く。たとえコップ一杯の水とバナナとパン一枚だけでも充分であると。◆運動するなら朝よりも夜にした方がいい。「デスクワークの人が退社時に感じている肉体疲労はうっ血によるものなので、夜にウォーキング程度の軽い運動をすると、血流がよくなるのでかえって疲れがとれる」。◆副交感神経のレベルが下がったときにそれを上げる方法は「笑い」だそうだ。「笑うと副交感神経があがる、ということは、副交感神経が上がればリンパ球の活性が上がり、免疫力が高まる・・」。要するに笑うと病気になりにくいということ。◆それ以外にこの書には色々なことが記されている。著者の書きたかったことをまとめると、・・・睡眠をしっかりとって、時間に余裕をもって行動して、リラックスして、正しく呼吸をして、暴飲暴食をやめて腹八分目の食事にして、適度な運動をして、そして毎日を怒りっぽくならなくて笑顔で過ごす・・・これこそが健康の極意ではないだろうか。◆だれでもができる極意てす。さぁ、明日から、いや、今日からそんな毎日を過ごしてみましょう。そして笑顔を忘れずに、仕事も私生活も楽しく毎日を過ごしましょう。

2013年2月号

2013年は、この日本国にとってどんな年になるのだろうか?単なる思いつきの妄想を綴ってみたいと思う。◆当然のごとく少子高齢化が急激に加速していく。ips細胞から難病などの治癒の方法が見つかる。その他にも新薬の開発が進む。様々な病気が治せるようになる。国家プロジェクトとして推進していく。すばらしい!!そして平均寿命がさらに延びていく。でもその結果、自分で自分の健康を守る気力がどんどんと衰えていく。健康は国が守ってくれるとすべての国民が思いこむ。運動の大切さも忘れ去り、自分の脚で歩くことの大切さを忘れ、ただ人は呼吸をしてさえいれば生きていると勘違いをしてしまう。そして「寝たきり老人」となり、寝たきり老人が増大する。◆「家族」はあくまでも二世代以内のことであり、三世代の「家族」はますますあり得なくなる。おじいちゃん、おばあちゃんとの同居は益々考えられなくなる。長男が結婚をして別居で新居を建てた、両親は二人きりで住む。両親はいつかは一人になり、一人暮らしになる。そして孤独な「寝たきり老人」となる。「家族」の有り様が明らかに変化してくる。◆子供たちは成人になったら平気で両親のいる故郷を捨てる。子供達は都会に行ききらびやかな生活にあこがれる。多少生活が豊かになるかもしれないが、心が傷つきながらも毎日を都会で鬱々とした生活を送る。そして結婚をして、新たな「家族」を作る。東京オリンピックの実現性が帯びてきて、就職口はなんでもある。だから若者は余計に都会にあこがれるようになる。◆故郷には若者がいなくなる。65歳以上のお年寄りが半数以上という、所謂「限界集落」となっていく。日本のすべての故郷が「限界集落」となっていく。地方都市の商店街はシャッター通りとなり、ますます寂れていく。当然のごとく病院も経営が立ちゆかなくなり、地方からは撤退するしかない。するとそこに住んでいるお年寄り達はどうなるのか?都会に集まってもらうしかない。都会に住んでもらうか、あるいは都会の老人ホームに入るか・・。◆すると国は「道州制」を推し進めていくことになる。「道州制」とは聞こえは良いが、別の見方をすると「限界集落切り捨て制」と見えてくる。皆さん、田舎は不便です。老後は是非、都会に住んでください・・、都会は便利ですよ、少し歩けば病院もお店屋さんも何でもありますよ・・と。◆国が景気浮揚対策として色々な対策をしても、結局のとろこあまり効果が上がらず、現状維持を由としていこうという気分になる。震災のことも忘れて、まっ、とにかく自分さえよければそれはそれで良いか、という気分。あの「絆」という文字はすでに忘却の彼方に。◆あーーー、なんという寂しいことか。書いていても何故ここまで悲観的にならざるを得ないのか、自分に疑問に思う。どうせ書くなら明るく陽気に前向きなことを書けばいいのに・・。そのな苦情が聞こえてきそうだ。◆これは単なる私の妄想です。現実は・・・今の政治家たちに期待しましょう。2013年は2013年のために存在しているのではなく、これから5年後、10年後のための通過点であること、そのことも忘れないようにして、いつも笑顔で楽しくこの年を過ごしていきましょう・・・私たちの子供や孫の世代のために・・。

2013年1月号

この文章が掲載されるのは2013年の一月号。本来であれぱ「あけましておめでとうございます」と書き出すべきなのだろうが、今は12月初旬、あまりにもリアリティがないので、普通に書き進めたいと思う。◆さて、今はウジャウジャと政党ができている最中。そして、こことここが引っ付いてこうなり、あそことここが・・・考えるだけで面倒になる。またそれぞれの政党の言っていることを聞いても、どこもが「脱原発」「原発ゼロ」「卒原発」、「消費税値上げ反対」「デフレ脱却」「景気浮揚対策」。どれもこれも耳障りの言い言葉ばかり。被災地のことは?被災地の人たちの雇用の問題は?被災地の将来図は?東北全体の将来の有り様は?仮設住宅の人々のことは?昨年の3月11日はどこかに消滅してしまったのか。◆しかしこんな政治にしてしまったのは私たち国民にも責任があるのではないのか。私たちは国や行政に求めているのは何か?それは「サービス」ではないのか?飲食店に入ったときに「いらっしゃいませ」と接客されて、黙っていてもお水とおしぼりが出てきて、お水をこぼしたら店員さんはすぐに走ってきて「大丈夫ですか?」とおしぼりで拭いてくれる。注文したものが出てくるのが遅いとクレームつければ「申し訳ありません」と謝罪も丁寧に、そしてすぐに注文したものが出てくる。そんなサービスを私たちは求めているのではないのか?◆私たち日本人が病気になる、あるいは怪我をする。そうするとその原因がどうであれ、ほとんどの人が保険を使って治療をすることになる。たばこをパカパカすって、暴飲暴食をして肥満になり、その結果肺ガンになった、胃ガンになった、そんな人でも保険で治療ができる。どんなに不摂生をしていも、病気になれば「保険」というサービスを受けることができる仕組みが日本にはある。所謂、皆保険制度だ。◆よくよく考えるとそのサービスはとてもいびつな面があるように思う。一生懸命運動をするためにジムに通い、ジョギングをしてそれなりの投資をする、その結果病気になりにくい体になる。そのような人の掛けたお金が、運動もせずに不摂生をして勝手に糖尿病になった人の治療のために使われる。それが今の皆保険制度の現実。不摂生をして病気になる人の治療費は自費にしてもらい、難病のハードルを下げて、「本当」の病で苦しんでいる人たちにもっと手厚くするのはどうだろう。◆病気には、食事に気をつけてそして運動をすれば退治できるものがあるはず。それにも関わらず私たちは無条件にサービスを求める。病気のことだけではないだろう。省エネに協力したら補助金を求める。生活に困ったら現金を求める。道路に穴があいていてパンクしたら行政の責任とする。学校内で子供が怪我をしたら学校側の責任となる。これらすべてが行政や政治のサービスとなる。知らず知らずのうちに、私たちは最高のサービスを政治や行政に求めようとしているのではないだろうか?◆アメリカのフィットネスジムの数は約3万軒、イギリスは6千軒、日本は3500軒というデータがある。人口比にしても日本がいかに少ないのかがわかる。これは何を意味するのか?私の想像ではあるが、アメリカは皆保険制度はない、自分の体は自分で守らなければならない、だから運動をする人口が多いのではないのか、と考える。◆皆保険制度が悪いと言っているのではない。私たちはこの日本という国を愛するのであれば、「自己責任」として自分で自分の健康管理ぐらいはしようよ。政治にばかり、他人にばかり責任を押しつけるのではなく、自分の責任も自分なりに明確にして、大人としての行動をしよう。そんな日本人が増殖してくれば、日本も「国民に媚びる政治」から脱却できるような・・・そんな妄想をする昨今です。