9月9日にNHKスペシャルで「追跡 復興予算19兆円」という番組を見た。実際の取材に基づき見応えのある番組に仕上がっていた。大震災後、被災地復興のためにつぎ込まれる巨額の復興予算。私たちへの増税を前提としてつぎこまれることになった「復興予算」はいったいどのように流れ、ごとに使われているのか・・それをテーマに番組は進められた。◆番組は沖縄の新設の国道が「復興予算」を使われて建設されていることを紹介。いきなり衝撃をうける。何故?信じられないままに番組を見ていると、その他衝撃の事実の数々が紹介されていく。どこかの刑務所では再犯防止のための職業訓練と称して予算が使われている。また国立競技場では3億円の修理費用が「復興予算」を使う。岐阜のコンタクトレンズメーカーは、この予算を使って工場の増築をしていた。え?民間の企業が復興予算?本当にびっくりの連続だった。警察庁だったか警視庁だったか、テロ対策のために車両14台を復興予算で購入。キズナプロジェクトと称して海外から研修生を呼び、食費や宿泊費、そして観光させるための費用をこの復興予算を使う・・・もう絶句!!!◆何故このような使い方がまかり通るのか?それは東日本震災復興対策本部が昨年の7月に表した「復興の基本方針」にその根拠があるという。その方針の「基本的考え方」にこんな一文がある。「今回の東日本大震災は、・・・・・震災の影響が広く全国に及んでいるという点において、正に未曾有の困難である。国は、このような認識の下、被災地域における社会経済の再生及び生活の再建と活力ある日本の再生のため、国の総力を挙げて、東日本大震災からの復旧、そして将来を見据えた復興へと取り組みを進めていかなければならない。」◆活力ある日本の再生するために、岐阜のコンタクトレンズメーカーは工場を増築する。たくさんコンタクトレンズを作れば、被災地の仙台にある店舗で地元の雇用が生まれるからとのこと。活力ある日本の再生のために、刑務所で再犯防止のための職業訓練を必要とする。活力ある日本を再生するために・・・。なんというこじつけ。これが今の日本の実態なのか・・。憤りを通り越して、とても悲しい現実である。◆このような予算が、分析した結果、全体の25%ぐらい復興予算と関係ないと思われる使い方があるらしい。我が官僚たちは私たちの税金の分捕り合戦をしているような様相が見え隠れする。自分の省庁に少しでも多くを、大義はどうでもいい、まずは予算を増やす。大義を実現することが目的ではなく、国民のために何が最も重要なことかと考えることが目指すところでもなく、彼らの目標はただただひたすら予算を取る、そのことだけが目標化しているに感じる。◆それにしても「仕分け」までして予算に厳しく対していた現政権は何をしていたのか?省庁の大臣、副大臣、政務次官は何をしていたのか?それでも彼らは予算については全く知らされずに官僚任せなのか?◆それと最後にもう一つ言いたい。マスコミは何をやっていたのか?NHKが取り上げてから、今、世間がこの問題で騒がしくなった。しかし、この問題は昨年末からすでに予算が配分されて使われている。その現実を考えると、権力を監視する役割のマスコミが、いち早くこの事実を掌握しなければならないはず。なのに、現実は政局の取材合戦。政局よりももっと大切な事柄が国会内にある・・・そのことをつくづく知らされた番組でもあった。
月別アーカイブ: 2013年11月
2012年11月号
今回は自分の健康について書きたい。昨年の5月までは食べたいときに食べたいものを食べたいだけ食べる、そんな毎日を送っていた。その結果、当然のごとくに体重が増え続け、昨年の5月にはマックス83.㎏を記録してしまった。挙げ句の果ては、自分で靴下をはくことさえ困難な状況に陥った。◆自分の食欲のおもむくままに食べ続ける。当然体重が増える。くさい物には蓋をするがごとく、体重計にものらなくなる。動くのも面倒になる。仕事を終えて家に帰ると、後はすべてお据え膳。食事もお風呂も翌日の準備もすべて自分の仕事ではないと信じ、ただひたすらソファーに寝っ転がる自分。「仕事が忙しいから」「男は外では大変なんだ」などと内心で言い訳をしつつ、ただひたすら食べて寝る。◆そりゃそんな生活を何年も送っていれば、間違いなく不健康な体型になる。そんな自分に気が付いてはいたが、そんな自分を受け入れてきた。そこで昨年の3.11。考えさせられた。ボランティアにも行きたかった。「こんな飽食の生活でいいのか?」「こんな体型でいいのか?」・・・。◆今も忘れない、昨年の5月のこと。このままではいけない、なんとかしなければ・・・ゴールデンウィークに自分の気持ちが弾けた。よしスポーツジムに行こう、まずはそう決心する。それから週に3~4日のジム通いが始まる。食事もカロリー計算をして野菜中心にする。一度決心したらとことんまで追求する性分ゆえ、減量のスピードは速い。毎日、体重計を乗るのが楽しみで、昨年の年末にはすでに74㎏ぐらいまで落ちていた。◆そして今・・・今は71㎏。ただし今は減量というよりも、走ることがとても楽しくなった。当初の「減量」という目的から、今は「走る」ことに目的が変化してきた。大会を目指すようにもなった。◆何よりも大きな変化は、日常生活においてだ。現在の体重になったことにより、とにかく動くことが楽しくなった。歩くことが楽しい。立っていることが苦痛ではなくなった。だから日常においても、自宅で寝っ転がることがなくなった。子供みたいだが、自分のことは自分でできるようになった。このように日常の模様が一変した。◆血圧が高いと一生降圧剤を飲み続けないといけない、そう信じて15年ほど飲み続けていた。しかし今、その薬は飲んでいない。減量に伴い血圧も下がりはじめ、運動を続けることにより、血圧が正常値になった。信じられないかもしれないが、今は全くの正常値の範囲になっている。この一年間、風邪をひいたこともない。自分は「健康」だと断言できる。だから今、もし自分に最悪の病魔がおそっても、粛々とその事実を受け入れることができるのではないか、そんな神の領域のようなことも考える。◆どのような努力も苦しんで無理して行えば、絶対に継続しない。楽しんで努力をすることが何よりも大切なことだと思う。ダイエットが目的であれば、毎日体重計に乗るのが楽しみに思う。走ることが目的であれば、少しでも速く走ることを楽しみにしたり、料理好きな人は低カロリーで美味しいものをいかにして作るかを楽しみにする。楽しんで健康になり、そしてある程度の病気も彼方に追いやることができ、その結果、私たちの税金が安くなる・・・。迂遠な方法かもしれないが、国民一人一人のそのような努力が、住みやすい日本にしていくのではないだろうか・・・。今だから偉そうに言える劣等生です。
2012年10月号
先日、日本人の106歳のおじいちゃんが「公共交通機関を利用して世界一周をした最高齢者」としてギネス世界記録に認定されたとニュースで流れた。すばらしい、本当にすばらしい。だれにも迷惑かけることなくそんな人生の終焉を迎えたいと思う。◆先日「寝たきり老人のいる国いない国」という本を読んだ。北欧には本当に寝たきり老人がいないらしい。「寝たきり老人」という言葉さえないらしい。日本では、年をとってから寝ることが疾病対策の第一歩と考えられているようだ。そしてその時点で人間としての尊厳を奪われてしまう。そのような老人が200万人もこの国にはいる。◆日本ではもし寝たきりになったら・・・。着たい衣服も着ることができない。一日中、寝間着姿で過ごすことになる。食べたいものも食べることができない。与えられたものを食べるしかない。時にはベッドに縛り付けられることもあるという。時には赤ちゃん言葉でしゃべられることもある。◆ところが北欧では・・・。障害者を健常者と区別なく、社会生活を共にすることが正常だとする「ノーマリゼーション」という理念が徹底している。その理念が障害者だけではなく、老人福祉にも応用されているようだ。◆老人を一人の人格として尊重し、尊敬する。そのために昼間には車いすでの生活が当たり前となる。女性は化粧もしておしゃれもする。たとえおむつをしなければいけない状態でも、車いすでの活動的な生活は変わらない。尊敬をもって接するが故に赤ちゃん言葉で会話することなどあり得ない。◆これが現代日本の実態なのか。悲しい現実でもある。そんな日本が北欧のやり方を真似できるのだろうか?2012年度の社会保障給付費の予算は過去最高の110兆円。そのうち7割は高齢者の年金・医療・介護に当てられている。子育てと声高らかにいうものの、子育て予算はなんとそのうち4%しかない。今後も高齢者に要する予算はふくらみ続けるだろう。◆そして私たちが北欧並の老後のサービスを求めるならば、それなりの痛みが必要となる。北欧は税金が高いことで有名だ。その税金で様々なサービスを受け取ることができる。一方アメリカは税金はそれほどでもないが、寄付の額がすごい。一人あたりの募金額は日本の10倍以上という。その募金で病院が建てられたりしているみたいだ。◆ところが、この日本はというと・・・。税金を出すのは嫌だ、消費税があがるのはかなわない、寄付もそんなにしない、そんな習慣もない、でもサービスはそれ相応のもの以上のサービスがほしい。これってありかな?確かに今の国の有り様を見ていると、税金なんか出したくない、そんな気持ちにもなる。しかしその国を形作るのは私たち一人一人の思いだ。寝たきり老人を無くすことも、国だけの姿勢ではなく、私たちが老人とどのように向き合うのか、企業として老人の雇用をどのように広げるのか、自分が寝たきり老人にならないためにはどうすればいいのか・・・そろそろ真剣に考える時代に突入しているのだろう。お国に頼るだけではなく、一人一人が自分のこととして・・。
2012年9月号
今年の夏は暑い。気温も連日35度前後ととても暑い。そしていよいよロンドンオリンピックが開催されて熱い戦いか始まっている。(この原稿を書いている時はまだ開会式が終了したばかりだ、。この路程が掲載される頃には、すでに閉会しているが・・)◆国家間の問題は国家間の利害によって発生する。領土の利害、宗教上の利害などなど。世界中多くの場所で利害が複雑に絡み合って、その結果紛争がある。この地球上には悲惨な状況も多くあるようだ。そしてこのは日本においても尖閣諸島の問題、北方領土の問題など、領土問題は複数存在している。時には一触即発のような状況もある。いわゆるナショナリズムとしての問題だ。◆そしてロンドン。今、ロンドンでは、人権を尊重したナショナリズム(そのようなものが存在するのかどうかわからない、あるいは幻想かもしれないが・・)が、オリンピックという形で実現している。小難しいことはともかく、世界のアスリートたちがロンドンで熱い戦いをしている。そのアスリートたちは何を思い何を考えて戦っているのか。自分のためなのか、国家のためなのか・・。◆いずれにしてもアスリートたちにとっては四年に一度の晴れの舞台であることには違いない。それが誰のための戦いであっても、自分の目標を定め、そこに向かって全力で進んでいく、それだけが彼らの唯一の表現方法ではないのか。その目標は与えられたものではないはずだ。金メダルをとると言う目標、○○秒で走るという目標、この高さまで飛ぶという目標・・それらの目標は自らで設定しているのだろう。そしてその目標がモチベーションになっているのだろう。だからより速く、より高く、より強くなろうと血の出るような努力をしている。◆私たちの日常生活においても全く同じことだろう。明日の目標、来月の目標、一年後の目標、数年後の目標・・・その目標のもとに人は行動をする。明日は今日よりも元気な一日にしよう、来月はランニングのタイムを1分は縮めよう、一年後はマラソン大会に出場しよう、数年後にはオリンピックに出よう・・・知らず知らずのうちに人はだれでもが自分なりの目標を定めて、自らの力でその目標を目指して行動しているのだろう。◆辞書によると、「目標」とは、行動を進めるにあたって、実現・達成をめざす水準、とある。従って、人によって「水準」の違いはあって当然だ。世界新記録を目標とする人、日本新記録を目標にする、あるいは県内新記録を目標にする人、また市内新記録を目標にする人もいる。◆そして日々の生活の中でも人により目標は様々だ。私たちはアスリートではない。たとえ凡人であっても何らかの目標を持つことはできるはず。ダイエットをする、資格を取得する、本を読む、ペン習字を習う、大切な人の誕生日を祝う、日記をつける、病気を治す、山に登る、そんな目標を持つ。◆遠い将来の目標は、時には「夢」とイコールかもしれない。あるいは「妄想」と言われるかもしれない。しかし妄想であろうが夢であろうが、その目標を持つということは前を向いていることには違いない。人の悪口をいったり、愚痴や不満で毎日を過ごすのではなく、とにかく前を向いていく・・・そんな毎日が理想だと思う。
2012年8月号
今から30年ぐらい前だったか、この岐阜から関東の方に何かの用事で出かけたことがある。そのときに「セブンイレブン」という小売店があり、夜の10時頃にもかかわらず店内が明るく輝いていた。まさしく「輝いていた」という表現がぴったりのような記憶がある。しかもそのお店には日用品から食べ物まで販売していた。本当に驚いたものだ。◆あれから30年という年月が経過して現状はどうかというと・・。私の通勤距離はおよそ10㎞。その間にコンビニはなんと9店舗もある。しかもすべての店舗が24時間営業、「エネルギーの節約」というかけ声は何のその、だれもお客がいない深夜の店内は煌々と電気がともっている。◆現代の私たちの生活にはこのコンビニがなくてはならない存在になっている。調味料がちょっと足らなくても、コンビニへ。少し小腹がすいたと言えば、コンビニへ。甘い物が食べたいなぁと言えば、コンビニ。トイレットペーパーが足りないと言えば、その他日用品が急に必要になったら、コンビニへ。そして、昼食もコンビニ、晩ご飯までコンビニ。何もかもコンビニ。多少高くてもいい、歩いて行くことができる。夜中でも行ける。◆これからの日本は少子高齢化に突き進んでいく。その結果、高齢者の一人暮らしが多くなる。都会とか田舎とか関係なく、そのような状況になってくるだろう。そのような人たちにコンビニが野菜などを販売したり、そしてその野菜などを配達するサービスをしているところもあると聞く。◆以前にも書いたが、この日本には大型店舗が異常に多い。我がふるさとは人口が15万人程度。その程度の中都市に郊外型大型スーパーが6店舗ほどある。近郊を含めると10店舗はあるだろう。電気屋の大型店舗も2店舗ある。その結果何がおきたかというと、当然のごとく町の商店街の衰退だ。そして高齢者にとってはとても過酷な町になってしまった。買い物するために店舗まで数㎞もある距離をどのような手段でたどり着けばいいのか。◆これから少子高齢化が進めば、郊外の大型店舗まで出かけていく人がおそらく減少していくだろう。そのときはこのような大型店舗はどのように生き延びて行くのだろう。まっ、それは置いておくとして・・。◆高齢者にとって全く優しくない町になりつつある現代、コンビニの役割は新しい時代を向かえようとしている。それはいわゆる「八百屋さん」としての役割だ。コンビニで生鮮食料品が売られるようになった。そして、一人分のお総菜などのおかずが売られるようになった。多少割高だが、一人分なのにスーパーで大量に買わなくて済む。しかもお散歩がてら歩いて行ける。◆一人住まいのお年寄りのお宅で電球が切れた。さてどうする?そんな時はコンビニに電話すればコンビニの店員さんがすぐに交換にきてくれる。そのお宅でトイレの水が流れなくなった。そんなときもコンビニに電話すれば・・・・・。今日の晩ご飯は○○が食べたいと電話すれば、そのメニューのおかずをすぐに配達してくれる・・・・。◆いやいや、これは少々先走りです。コンビニの未来像です。でも自分が動くことがままならない状態になったとき、そんな未来型のコンビニがあればどんなに助かるだろう。そんな観点でこれからのコンビニ戦争を観察していくと、それはそれでまた楽し・・・。
2012年7月号
今年の大河ドラマで「平清盛」をやっている。あまり視聴率がよくないらしい。清盛の時代の物語には、歴史上であまり名前の聞かない人たちが繰り出す複雑な人間模様がある。特に朝廷における人間模様はみていると時折考えるのが面倒になる。よほどの歴史好きならともかく、歴史物語としては面白みに欠ける時代のようだ。◆しかしこの時代を俯瞰してみると、この時代のドラマは「武士の誕生物語」といえる。そういう思いでこのドラマを見ていると、それはそれでおもしろい。◆武士の起源は諸説あるようだ。たとえば、貴族の経営する荘園を武装した者たちが守る、それも起源と考えられる。すなわち貴族のボディーガードということになる。貴族自体は決して武装しない。しかし自らを守るためにはどうして武装集団が必要となる。「平清盛」においても、平氏も源氏も朝廷のボディガードが彼らの仕事となる。◆しかし清盛はボディーガードとしての身分には不満であった。自らが主体となり武士の世の中にしたかった。10世紀から19世紀まで約1世紀にわたって日本の歴史の主役であった武士の世の中、そのルーツは清盛の時代ではなかったのか。そう思うとこの大河ドラマも結構おもしろい。◆清盛の「武士の世」という思いとは裏腹に、清盛が選んだ道は朝廷に入り込むことだった。結果的に清盛は「太政大臣」というポジションにつき、朝廷人として政治を司ることになる。本当の武士の世は源頼朝を待つことになる。◆頼朝は初めて「幕府」をつくり、武士が政治を行うことを実践した。就いたポジションも征夷大将軍。それから足利の時代になり、織田信長、豊臣秀吉と続き、そして徳川の時代へと続く。その間、武士としての形は色々と変わってきた。◆はじめはボディーガードから始まったのが、自分の領地を守る集団となり、その領地を守るために命をかける一所懸命な集団となる。それが戦国時代だ。その頃のほとんどの兵士は農業などと兼務していた。農繁期は農業をして、農閑期には自分たちの領地を守るために戦った。だからお百姓さんが武器を持って戦っていた。しかも命をかけていた。◆そして織田信長の登場により戦闘集団のあり方が変わった。いわゆる専業化されたのだ。戦闘はその専門の人たちが受け持つ。農業は農業専門に従事する。そのことによりどのような遠征にも、どのように長期間の戦いにも耐えられるようになった。お百姓さんはもう武器を持つ必要はない、だから秀吉の時代に刀狩りが行われることになった。◆徳川の平和な時代になり、武士としての仕事がなくなった。そこで武士は官僚としての仕事を受け持つことになる。そんな時代を経て幕末へ向かう。開国したら武士は間違いなく失業する。だから自分たちの身分を守るためには「攘夷」しか道がない。それが尊皇思想とつながり「尊皇攘夷」思想が席巻して明治維新へとつながる。◆ここで昨年の大河の「坂本龍馬」の登場となる。龍馬は武士の時代はすでに終わったことを認識していた。しかし保守的な武士たちは自分の身分を守ることに汲々としている。そこに大きな風穴を開けようとした。そして実際に薩長連合という大きな風穴をあけた。言い方を変えると武士の世を終えることに大きな役割をの担ったともいえる。しかし実際に武士の世を終えたのは西郷隆盛の西南戦争だろう。そこで確実に武士の世が終了した。◆昨年の大河の人気者「坂本龍馬」は武士の時代を終えることになった立役者であり、今年の主人公「平清盛」はその武士の誕生の立役者であるといえる。そんな視点から今年の大河ドラマを見てみるとそれはそれで楽しいかもしれない・・・・(NHKの回し者ではありませんのであしからず・・・)
2012年6月号
新幹線の駅のホームでは騒音がいかほどなのだろうか。とにかくうるさい。ホームで電話をかけていると全く相手の声が聞き取れないことがある。「黄色い線から下がってください」「この電車は回送列車です・・・」「奥に順番につめてください」・・そして電車の到着と発車時のけたたましいアナウンスとベルの音。東京や大阪や名古屋などのホームに一時間もいれば耳の状態が変になりそうな気がする。◆他国ではどうなのだろう。私は行ったことがないから知らないが、人の話によるとこの日本ほどのうるささは日本だけかもしれない、とのこと。それではこの日本では何故こんなにアナウンスがあるのだろうか。◆そのアナウンスがなかったと仮定してみよう。「黄色い線から下がってください」とアナウンスがない状況の時にホームの縁を歩いている人が電車と接触したとする。そしてその人がけがをしたとする。その結果はどうなるのか。おそらくマスコミの論調は以下のようになるのではないだろうか。◆「管理者側の責任は重大」「管理者は危険を承知でそれを放置」「何故もっと注意を促さないのか?」「駅員の数はそれで足りているのか?」・・・こんな調子で管理者側の責任を追及する。そして世論もそんなマスコミの論調に合わせて「管理者側に責任がある」と断言する。その結果があの繰り返される意味のない大音量のような気がする。要するに「何もしないことに対しての責任を問われたくない」が故の「責任逃れ」の行為なのではないのか。◆先日、東南海地震などの津波の予測が10mからいきなり30mになったとニュースでやっていた。このニュースで頭にクエスチョンマークがついたのは私だけ?何故今のタイミングで急に30mになったのか?何故、今までにそのような予測ができなかったのか?首都圏直下型地震についても同じこと。何故、この時期に予測が急激に過大になったのか?今までは学者先生たちの予測が間違っていたということなのか?どうも納得がいかない。結局、これも責任逃れの行為と考えてしまう。「ここまで過大に予測しておけば、実際の災害が起きても予測以内だった」ということで非難されることはなくなる。◆新幹線ホームの話についても管理者側がマスコミ(世間)から追求されないため、あるいは追求されても「当方としてはできるだけのことはやっています」、そのために大音量で流しているとしか思えない。敢えて誤解を恐れずに言うと、このようなケースでは「自己責任」ということばは存在しないのであろうか。「自らの責任において行動する」・・そのことは人として最も重要で基本的なことの一つだと思う。現代の社会においては、その最も基本的なことが公共の場においては否定されているように思う。◆すべての責任は「公共側」にあり、「個人側」は全くの無責である・・・こんな構図ができあがりつつあるが故に、「公共側」は過剰に予測し、そして過剰に注意を促し続ける。◆本当は私たち「個人」が、みんなの力で「公共」を作っていくものだろう。しかし私たち個人は公共に守られていると錯覚してくる。そしてすべてを「個」としての役割を無視して、何においても「社会が悪い」「世の中が悪い」「政府が悪い」「学者が悪い」・・・と納得する。そんな現代をちょっと悲しいと思う。
2012年5月号
最近、被災地における復興策が少しずつ話題にのぼるようになった。そのほとんどがハード面の「復興」だ。高台に住宅地を作る。避難できるような場所をつくる。もちろんそのようなハード面の復興策は必要だ。早急に3.11以前の生活と同レベルの生活まで戻す必要がある。しかもより安心して生活できるようにしなければいけない。そのためにはハード面の整備は必要となる。◆しかし、それだけで本当にいいのか?1993年に北海道南西沖地震で奥尻島の奥尻町が壊滅状態になった。そして復興が始まった。防潮堤の整備をした。万が一の時の一時避難する場所を建設した。学校を高くした。などなどで860億円程度の公的な資金が投じられた。◆その当時の奥尻町の人口は4600人。しかし今はその時期から20%近くも減少しているとのこと。この減少は震災があったからということではなく、現代の地方が抱える問題そのものであったのだろう。すなわち震災前も震災後も、人口の減少は止まることなく続いていくのだろう。◆3.11以前の被災地の市町村における状況は、まさしく地方の問題を丸ごと抱えているような状況だったのではないかと想像できる。第一次産業の後継者不足、雇用先の減少、その結果、人口の流出による人口の減少、そして地方の衰退へと繋がって行く。◆さて3.11以後はどうか。漁業、農業の不振、観光産業の衰退、製造業の撤退における雇用の喪失・・などで、より一層人口の減少が想像できる。あくまでも想像ではあるが、どうしても明るい展望はもてない。◆これから10年後を想像すると、奥尻町の姿とダブってくる。町はきれいになった。安全に安心して暮らせるようになった。でも仕事がない。だからどんどんと人口が減少していく。そのような状況から脱却して、明るい未来を描いていくにはどうすればいいのか?それにはどうしても「雇用」が必要となる。◆国が徹底的に被災地の農業を守り、国が農産物などを買い上げるぐらいのことをして価格を維持して、農業や漁業を生業としている人達が幸せになるような仕組みをつくる。そうすれば必ず後継者が育つ。そして企業の工場を、国家的な施策としてではなく、企業自らの企業倫理感でもって東北に工場を造っていく。そして首都を東北の仙台とか盛岡に移す。◆復興について関東大震災と比較するような番組もあった。しかし関東大震災はあくまでも「首都」「都会」における復興だ。ハード的復興さえ遂げれば、必ず全国から人が集まり、そして新たな産業が起きることは誰でもが理解できる。阪神淡路大震災においても然りだ。だから「都会」における復興の状況と東日本大震災における復興を比較することは無理であり、ムダなことだと思う。◆今後、ハード的復興が始まると建設ラッシュになり、建設バブルが間違いなく起きる。今でもその兆候がある。全国から多くの人が集まり、そして多くの被災地に建設業の雇用が生まれ、そして一見豊かになるだろう。しかしもし建設ラッシュが終わったら・・・そこには悲しい現実が待ち受けているのではないだろうか。◆今から莫大な国家予算を使っていくことになる。その予算を無駄にしないためには、被災者の人達の10年後に「幸せだ」と思えるようにならなければいけない・・・そんなことを思いながら、1年目の3.11を過ごしました。
2012年4月号
この年齢になると医者にかかる回数も増え、支払う医療費も多くなる。20~30歳台は医者にほとんどお世話になったことはない。しかし今は・・・。なんとも情けない話だ。日本の医療費が30兆円だという。その一部を自分が支払っていることになる。また国家予算80兆円のうち、およそ8兆円が医療費になる。そのうちの一部を保険と言うかたちで使わせていただいていることになる。◆おそらくこれから年月を重ねるごとに、医者にかかる回数も増えるのだろう。そして多くの税金を自分が使うことになる。自分の病のために赤字財政がより大きく赤字がより膨らみ、そして後世に赤字の付けを回していくことになる。◆この30兆円という医療費を減らすにはどうすればいいのか。病は早期発見早期治療という。確かに早期発見して早期治療すると人命も助かり、そして医療費も安くなっていくだろう。でも、それよりも医療費を抑える方法がある。それは病気にならないこと。いわゆる「予防」だ。すべての国民がより「健康」でいることだ。◆より「健康」でいるためには何が必要なのか・・。それには「食事」と「運動」・・これしかない。テレビや雑誌なんかを見たり読んだりしていると、トマトはメタボに効果がある、ヨーグルトはインフルエンザ予防になる、ココアは何に良い、お肉は、鯖は・・・頭が混乱をしてくる。そして人々がその商品に殺到する。その現象を「フードファディズム」と言うらしい。しかし肝心なことは、情報により右往左往するのではなく、できるだけ好き嫌いをなくし、野菜中心のバランスの取れた食事をすることではないだろうか。それに尽きると思う。◆そして「運動」。実はこの運動こそが「健康」への一番の近道だと思う。このことは誰でもが分かっていることだろう。しかし今、全国民が運動不足の事態に陥っている。ファーストフードや脂っこいものや、そんな物ばかりを食べていて運動もろくにしない、その結果はどうなるか明らかだ。◆最近国が作った概念で「メタボリック症候群」というのがある。その概念に意義を唱えるメディアが非常に多い。でも「メタボ」を「不健康」という意味であると考えると、その一言で自分の状況が分かるとても良い概念だとおもっている。◆「食」から健康を考える場合、国家資格として「栄養士」がある。片や「運動」から健康を考える場合はどうか?残念ながらこの部分の国家資格がない。例えばエアロビのインストラクターであったり、ヨガの指導者であったり、老人に対する運動の指導者であったり・・その指導者たちの社会的地位の向上こそが、これからの日本を救うのではないだろうか。◆今年は自分で予防できる病気には絶対になるまいと決心する。自分ではどのようにも防ぎようのない病は仕方がない、粛々と受け入れて、そしてその病と闘ったり仲良く付き合ったりしながら生涯を過ごしたい。しかし自分の責任において罹る病は絶対に寄せ付けるものか!!◆こんなことを考えていると、被災地で仮設住宅において生活している人達の健康はどうだろうと思ってしまう。運動ができているのだろうか?いつの日か一緒に健康のための「運動」ができる日があれば・・・そんな妄想がよぎる。
2012年3月号
「私は幸せです」、人からそのような言葉を聞くことは滅多にあるものではない。でもそのような言葉を耳にすると、自分までもが幸福になったようなホンワカしたように気持ちになる。今回はこの「幸福」について少し考えてみたい。◆愛する人と結婚ができた、生活にも困らない、子供も授かった、家を建てた、その子供もすくすくと成長している。こんな状況は誰の目から見ても幸福に違いない。実際に本人達は幸福と思っているだろう。ところが、お隣さんが引っ越してきた。そのお隣さんは自分のところとは違い高級車に乗っていた。時折ハウスキーパーが出入りしてお掃除などしてくれている。家具や化粧品などもすべてが自分と違って超一流のものが揃っている。こんな光景を目の当たりにしたどうだろう?◆もちろんそうであっても、「うちはうち」と割り切れる人もいるだろう。でも人によっては、自分のところと比較をして「あんな生活をしてみたい」と思う人もいるだろう。自分が幸福だと思っていた人達は、自分より幸福だと思える人達と出会ったことにより、自分の幸福感はどんどんと薄れていくことになる。そして結局のところ、自分は非常に不幸だと思うことになる。◆「幸福」と思う感覚はどこから来ているのか?それは紛れもなく相対的な感覚であり、人と比較することにより「幸福」と感じるのではないだろうか。しかし考えて見ると「幸福」とは主体的な感情であり、決して他人と比較して感じる感情ではないはずだ。それにも関わらず私たちの日常の生活において、どんなことにも他人と比較する。他人より勝っていることに優越感を感じ、その優越感が幸福感となる。◆ムムム・・・こんな結論ではあまりにも殺伐としている。本来の「幸福」とは・・あくまでも個人的希望であるが・・他人ごどうのこうのという問題ではなく、隣人が、同僚がどういう状況であれそれが問題ではなく、あくまでも自分個人の問題として完結していなければいけないと思う。敢えて言うならば「絶対的幸福」である。◆絶対的幸福とは、隣人がどんなに豊かでも、同僚がどんなに恵まれていようが、自分は自分として「幸せ」だと感じること。人が自分よりどんなに恵まれていても、「うらやましい」とは決して思わない。自分の生活水準をしっかりと掌握して、身の丈にあった生活をすることに満足できる。人から愛されることを求めるのではなく、人を愛することに充足感を見いだせること。自分のしている行為が人のためになると思えるような仕事や生活ができること。そしてその事により、人が幸せになったことを確認できること。それらが絶対的幸福といえるのではないだろうか。◆2011年5月に南三陸町に行って来た。そのとき避難所で話を聞いていたら、そことのおばさん達が、「私たちは今、とっても幸せです」と言っていたことを思い出す。物資も不足している、生活も不便、将来の見通しがたたないのに、それにも関わらずそう思っている人達があの苦境の中でも少なからずいたということを、私たちは知るべきだと思う。そして私たち一人一人が「自分は幸福だ」と言えるようにな世の中になればいいなぁ、そんなことを思う今日この頃です。