月別アーカイブ: 2013年10月

2011.9月号

最近私の身の回りにマイホームを建てる人が非常に多くいる。私に係わる狭い範囲だけでも、一昨年からすると10人以上の人が戸建てを新築している。しかも非常に若い年代の人が多い。なかには20代の人もいる。私たちの世代では考えられない。20代でマイホームを持つなんて・・、すばらしい事には違いない。◆マイホームは「夢」の時代があった。でも今の時代、マイホームは「夢」ではなく、単なる人生設計に過ぎないのではないだろうか。「夢」とするにはあまりにも現実的で、誰でもが簡単に手に入れることができる「希望」とでもいったらいいのだろうか。◆しかし私たちにとってはその「夢」や「希望」はとても大切なことだと思う。なくてはならないものだろう。もし「夢」や「希望」がないなら、私たちの生きるためのよすががなくなってしまうだろう。「生」自体が全く無意味なものとなっても不思議ではない。◆「夢」、「希望」・・・日本が自然エネルギーだけで電気がまかなえることができ、そして自給自足ができる、そんな夢もあっていいだろう。自分の人生において素敵な人と出会え、そして結婚をしてマイホームを持つ、そんな夢や希望もいいだろう。また災害に遭った人達には、一日も早く「普通」に戻ることを願う夢や希望があってほしい。決してあきらめることのない希望を持って欲しい。普通の日常生活においても、「明日は少しでも今日よりも良い日でありますように・・」、「明日は今日よりも良い仕事ができますように・・・」、そんな希望を誰もが持っていることと思う。◆そんなささやかな「夢」と「希望」・・・でもとても大きな意味のある「夢」と「希望」・・・それらが何かの行動をするための「動機づけ」になるだろう。いわゆるモチベーションというものだ。逆に言うと、その「夢」や「希望」がないことには「動機づけ」がなくなり、モチベーションが全く上がらないことになる。要するに「やる気がない」状況が生まれる。◆以前、震災で家を流されてしまった石巻の人と出会った。震災から数日してから子供が生まれた。その子供の名前を「希」(のぞみ)という名前にしたと話を聞いた。その理由は「子供に希望を持たせたいから・・」と。その子供がすくすくと「夢」や「希望」に溢れた人に成長していくことを願うばかりだ。◆もし私たちの日常から「夢」や「希望」がなくなったら、残るのは「絶望」しかない。その「絶望」からは何も生まれない。どんなに苦しくても、どんなに辛くてもとにかく前を見よう。ほんのわずかな光でもあれば、それが「希望」に繋がるはずだ。そしてそれに向かって一歩一歩前進して行こう、決してあきらめないで・・。それが私たち「生」を与えられた者の宿命なのではないだろうか。◆マイホームに話を戻すが、この少子高齢化の時代に若い世代がどんどんとマイホームを建てると言うことは、それだけ独居老人の数が増えることに繋がるのか、そしてお年寄りから子供に託した「夢」や「希望」を奪ってしまうのか。夢や希望には絶対量が決まっている訳ではない。その量は無限に存在しているはず。だから、すべてのお年寄りたちにも「夢」や「希望」がなくならないことを願いたい。そんな心配もしている劣等生です。

2011.8月号

またこの日本の首相の取り替えが始まろうとしている。このエクスプレスが発行される頃にはすでに「首」は変わっていることと思う。出るのはため息ばかり。この10年間で10人の総理大臣・・。◆あの世界の人達は本当に日本人だろうか?彼らは日本人を放棄しているのではないのか?そんな気がしてならない。彼らは日本人の前に党人であろうとしている、あるいは派閥人であろうとしている。そこが彼らの行動形態の原点のようだ。この日本のことよりも自分たちの派閥のことが大切なのだろう。私たちはそんな人達にこの国を預けていることになる。◆そもそも政治というのはどのような原則で動くのか?それは「世論の動向」だと思う。言ってみれば国民の人気取りのために政治は動く。よく政治家も、「世論の動向を見ながら・・・」と口にする。すなわちそこには「世論こそ正義」という公式が成り立つことになる。自分達の信条も信念も脇に除けて、世論を読み取り、その世論に迎合していくことのできる政治家が「良い政治家」ということになる。◆本当にそうなのか?「世論」に迎合していくことが本当に良い政治家なのか?そうであるなら、世論に迎合しない少数派の意見はどうなるのか?多数決原理であるが故に、少数意見はすべてが闇に葬られるのか。◆そもそもが、その「世論」とは何なのか?「今の首相は日本の首相として相応しいと思いますか?」、そんな質問に対して圧倒的に「相応しくない」との回答であれば、政治の世界では「首相交代」「菅おろし」という大合唱になる。そしてその合唱に基づいて政治も動くことになる。◆それではその「世論」を形作るのは何か?何によってその世論が作られていくのか?私たち現代の日本人は思考停止状況となっている。自分の信念で何が正しいのかを自分で判断ができなくなっている。それ故に私たちが判断する源はマスメディアになる。そのマスメディアによる影響は当然といて受け入れなければいけないだろう。しかしそのマスメディアの中でも最も日本国民にとって影響力があるのは何なのか?それはおそらくテレビではないだろうか?しかもワイドショー的な番組から私たちは垂れ流される情報をもとに世論を形作っているのではないだろうか。◆私たちはマスメディアから客観的な情報を収集して、その情報をもとに私たち一国民としての思考を形作ることが理想であろう。しかし現実はどうだろうか。実際には私たちが自分の思考力で自分の意見を形作るのではなく、コメンテーターの○○さんがそう言ってたからそうに違いない。コメンテーターならまだ良い方かもしれない、中には「タレントの○○がそう言ってたから・・・」と、その意見を自分の意見として形づけていく。◆私たちは今、マスメディアに自分の意見が誘導されようとしている。マスメディア側はそんなつもりはないのかもしれない。しかし残念ながら私たちが思考を停止して、「誰が有名な人の意見」を自分の意見として思い込もうとしている。今の首相は今まで何もやってこなかった・・・というように・・。私たちは日本人です。マスメディアを離れて、一個の日本人として今、私たちは何をしなければいけないのか?自分は何をしなければいけないのか?この震災を契機に、そんなことを考えることの日本人に目覚めてもいいように思うが・・・・

2011.7月号

被災地のがれき・・実はそれは「がれき」ではなく、被災者の方々からすると一つ一つが生きてきた証だろう・・そのがれきの撤去作業が進んでいる。20数年分のがれきをわずか2年で処分していくと新聞に載っていた。ということは、あと二年で被災者の人達の生活の証がすべて消え失せることになる。もちろん私たちもその後、永遠にこの光景を目にすることができなくなる。◆第二次大戦の戦争遺跡として現存しているのは広島の原爆ドームだけではないだろうか。沖縄の「沖縄戦跡国定公園」にしても「ひめゆりの塔」にしても、確かに戦争遺跡ではある。しかしその遺跡から戦争の悲惨さは伝わってこない。第二次大戦がいかに悲惨で大きな悲劇を引き起こしたのか、そのことがリアルに伝わってくるのは「原爆ドーム」なのだ。原爆ドームを見ているとき、ついつい涙が流れ、そして現在の平和を享受していることに対する喜びをかみしめることができる。特に私たちのような戦後っこだと余計にそうだろう。◆人間はどんどんと忘れていく。あるいは世代が変わって、本来受け継いで行かなければならない思想や哲学も引き継ぎされずに、「今」という時間だけを感じている。人間とはそういうものだろう。人間とは忘れていくものであるから、形のあるものを残すという行為をしていく。それが遺跡であったり、遺産となる。◆このようなことを考えて行くと、今回のいわゆる「がれき」は私たちの貴重な「遺産」ではないのか。未来永劫、「遺跡」として残していくべきものではないのか。南三陸町の防災センターでは24歳の女性役場職員が「津波が来ます、避難してください・・」、津波が来るまでそう叫びつづけて、最後には逃げることができずに亡くなってしまった。その防災センターを「遺跡」として保存していくべきだと思う。「ここに防災センターが建っていた」という碑を建立するのではなく、今の鉄骨だけになったその姿のママに保存するべきだと思う。◆被災地においては、今後は平地には人は住まない方向になるような報道もある。実際、被災地の方に聞いても、「もう津波が襲ったとこには住めない」と発言されていた。そうであれば、ある建物だけを保存するのではなく、その地域全体をそのままの姿で保存することもあり得るのではないだろうか。◆今後、この津波に襲われた地域は、背の高い鉄筋コンクリート建ての建物を建てたり、公園を造ったり、記念碑を建てたりすることになるのだろう。そのような方向に進むと言うことは、そこにはゼネコンと政治家の「利権」の匂いがプンプンとする。「聖なる地」が「汚れた利権」で汚されることだけは勘弁してもらいた。多くの人々の神聖な命が、薄汚いゼネコンや政治家の思惑と取引されるなんてとんでもない。それだけは絶対に許せない。でもその可能性がすごく高い。それをなくしていくには、「聖なる地」を汚れた手から守るには、その地をそのままにして後世に伝えていく・・・それが最も単純で最もリアルで最も明確に後世に伝えることができる方法だと思う・・・でも実際にはむりだろうが・・・ともかく聖地が利権の餌食にならないことを、今は祈るばかりだ。

2011.6月号

地震、津波、そして放射能・・その次にくる被害は風評被害、そしてその次はなにか?それは「差別」ではないだろうか?「福島県の人の宿泊お断り」の旅館があるという。福島県ナンバーの車両に「放射能」と落書きがされていたという。福島県の人達が隣県に避難していたら嫌がらせをされたという。このことは私自身、自分の目で確認をしたわけではない。また信じたくもない。しかしこのような話が出回っていること自体がすでに「差別」のあることが前提となる。◆先月に書いたが、今のマスコミ、特にテレビにおいては、連日「東電」に対する批判が強まり、「東電」が悪役になりきっている。でも本当に東電だけがわるいのか?よくよく考えるとこの原子力発電は国策として推進したのではないか。しかもその推進したのは当時の為政者である自民党ではないか。原子力行政には利権があるという。東電に官僚の天下りがいると批判がある。これって今の民主党は関係ないことではないのか?もしこのようなことを問題にするのであれば、自民党の体質の問題ではないのか。そしてそんな自民党を「是」として容認してきたのは、我々日本国民ではないのか。◆津波の高さを想定してきたのは当時の為政者ではないのか。地震のマグニチュードを予測して原子炉を設計し、そしてそれを承認したのはそのときの為政者である自民党ではないのか。原子力発電を建設するときに集まった学者達は東電の都合のいい人達ばかりだと批判する。でもそれを容認していたのは・・・。◆そんなことを考えていると、今、東電の人達が頭を下げて謝罪をしている光景が、何故か違和感がある。何故、当時の為政者が頭を下げない。何故当時の原子力発電に係わった人達が頭を下げない?◆今、現場で命をかけて作業をしている人達、いわゆる「作業員」と呼ばれる人達は、東電の社員や下請けの人達、原子炉メーカーの人や、その他工事業者関係の人達だ。その人達は先の見えない暗闇の中で、この日本の為に必死に作業をしている。私たちにとっては英雄ではないのか。それなのに何故、テレビでは顔を隠さなければいけない。声も変えなければいけない。◆このように東電を悪者にする結果、将来何が生まれる?答えは簡単だ。「差別」・・。「お前のお父さんは東電なんだってな・・」「お前のお父さんは日本をダメにしたんだ・・」「お前のお父さんは放射能野郎さ・・」◆子供は残酷なものだ。こんな悪口ぐらい平気で言う。今のこの流れ、最も影響力の強いテレビというマスメディアが東電を悪者に仕立て続けたなら、その先に待つのはこのような「差別」しかない。誰でもが予想できないのか?しかもそれは瞬間的に行き過ぎる「差別」ではなく、これから何十年も生き続ける・・。「うちの子供は東電の子供には嫁にやれないよ」、こんなことになれば悲劇は悲劇を呼ぶことになる。就職もままならないかもしれない。◆日本の救世主である人達が、日本で一番の悪人になってもいいのか。その子供達に「悪人の子供」という運命を背負わせていいのか。◆「差別」というのはエスカレートしていく。でもそれを阻止できる方法がある。それは一人一人が今のうちに気がつくことだ、福島原発で作業をしている人達が私たちのヒーローであると。そしてテレビでそれをいつもいつも叫んでくれる人が登場してくれればいい。その人が日本の将来の悲しみの連鎖を必ず止めてくれる・・・そんなヒーローが登場してくれることを祈る。これ以上の悲しみはいらいな・・・。「君たちのお父さんは本当のヒーローだよ」

2011.5月号

3.11のできごと

2011.3.11・・永遠に記憶に残る日、そして子々孫々まで語り継がれる日。その日の午後2時46分ごろ、皆さんは何をしていましたか?ごくごく普通の日常の中で、ある人は車を運転していたでしょう、ある人は会社で仕事をしていた、ある人は買い物に行っていたでしょう、そしてある人は・・・ごくごく当たり前の時間をすごしていた。東北地方の人達もそうでしょう。毎日の繰り返しになるような時間を過ごしていたはず。その時間にほのかな幸せを感じて、その時間を過ごしていたはず。しかし・・・◆その一瞬で今まで築き上げてきた家族が、幸せが、人生が、夢が、そして現実が、すべて何もかも奪い去られてしった。自然の驚異の中でなすすべもなく・・・。この日本が根底からどうにかなってしまうほどの災害。それに対して私たち日本人はどのように立ち向かっていけばいいのか?安全地帯にいる私たちは、被災された方々に何をしていけばいいのか?まず一番大切なことは、マスコミのちゃらちゃらした番組が始まってそれに惑わされることなく、今の「日本人はみんなで助け合っていこう」、こんな思いをいつまでも持っていることだと思う。◆それにしてもマスコミの切り替えは早い。録画で撮りだめしてあるとは言え、「笑いを被災地に届けたい」との言い分で、3日後には通常の番組が始まっていた。そしてその通常の番組が日に日に増えていく。一週間経過したときには、ほとんどが通常の番組に戻っている。とても1000年に一度の災害に対する対応とは思えない。◆また無責任なコメンテーターが無責任なコメントをする。相も変わらずだ。「何故、すぐに救援物資を届けないのか?政府の責任は?」・・・そう言うあなたならどうやって届ける?数十万人の人がどこに非難しているかも分からない、ガソリンもない、道路もないのにどうやって届ける?「情報をしっかりと出して欲しい」「これからどうなるのか、その情報もしっかり出して欲しい」・・・特に原発事故に関してはこのようなコメントを多く耳にした。そりゃあ正確な情報がほしいに決まっている。そんなに言うならあなたがまずは現場に行ったら?と突っ込みたくなる。◆「屋内待避の人達には国が責任を持つべき、国がそのように指示したのだから国が食料をちゃんと届けるべき」・・・まったく何を言っているのやら。数十万人の人が2000箇所以上の場所で避難生活をして、2万人以上の人が亡くなりあるいは行方不明となっている状態で、一軒一軒に対して国が責任を持って食料を運ぶべき?なんともおめでたいコメントだこと。あなたが今すぐにでも届けたらどうですか?◆オイオイ、これだけの災害のコメントをするのにイヤリングにネックレスかよ。アナウンサーがヘルメットを被っているのはいいが、後方でチョロチョロしている局の人達はノーヘル、あのヘルメットの意味は?スタンドプレー?10日ぶりに助かったおばあちゃんにマイクを向ける節操のない記者。被災地に入るとき、食料でも大量に持参したんかよ・・・・いろんなことを考えていると、腹立たしい事ばかりだ。◆原発事故においてあたかも東京電力の人達やその関係者が「悪」のような扱いになっているが、あの人たちこそ今、命を賭けて戦っているのではないのか?この日本のために、自分の命と引き替えにして戦っているのではないのか?東京消防庁や自衛隊の人ばかりが脚光を浴びるが、本当のヒーローは最も危険な現場で作業をしている東京電力や原子炉メーカーやその関係業者ではないのか?◆何故、いつもかもマスコミは対立構造を作り出そうとするのか?「政府の対応が悪い」「東京電力が悪い」・・いま、そんな論調を前面に出す場合なのか?今、私たちがやらなければならないことは、まずは私たちの代わりに現地で活動してくれている自治体の人々、自衛隊、警察官、消防団、原発の関係者などの人々に感謝をすること。そして結果的にこの日本がひとつになることではないのか?それがこれからの日本が立ち直っていく唯一の道筋だと思う。そのためのマスコミの役割はとても大きいと思う。◆いくらスポンサーが自粛しているとはいえ、あの「AC」のコマーシャルはいただけない。これこそマスコミがエネルギーを注ぐところではないのか?例えば、世界中の著名人のメッセージを次から次と流すとか、罹災した人々の連絡のつかない人達へのメッセージを流すとか、自衛官や警察官や消防団員の活躍している人々を紹介するとか・・・被災した人々に勇気と希望を与えるような時間にしたらどうなのだろう。あの垂れ流している膨大な時間は、マスコミの怠慢の結果なのだろう。お安いコメントで時間をつぶし、そして挙げ句の果ては「AC」とくる。◆ある番組である新聞の編集長がこんなことを言っていた。「今、政府が悪い、政治が悪いと言っている場合ではない。今はまずみんなが一致団結するときだ・・」と。私はこれこそマスコミの良心だと思う。被災地の人達は「私は苦しくても、もっと苦しんでいる人がいるから・・」、そんな言葉を聞くと胸が苦しくなる。それなのに私たちは政治を非難することしかできないのか、と。人のやっていることに批判をすることは簡単だ。誰でもできる。これからの私たち日本人は、人を批判する前に自分は何ができるのか、そのことを試されていくのだと思う。私もマスコミ批判をする前に、まずは自分が何をこれからしていくのか、そのことを考えていきたい。この大好きな日本のために・・・。

2011.4月号

今回は「高齢化社会」について考える。高齢化社会になる要因は出産率の低下だ。夫婦間で出産する子供が2人に満たないために人口が減少する。いわゆる少子化だ。そこへ持ってきて医療の発達によって日本人の平均年齢がどんどんと上がって来る。その結果、子供が少なくてお年寄りが多くなるという「少子高齢化」の社会になる。◆当然国もそれなりの対策をしているようだ。少子化担当の大臣もいるくらいだ。そして平成15年に「少子化社会対策基本法」という法律ができた。その法律では・・少子化は日本の将来にとってはとても深刻な問題だ。男女共同参画の形成にあいまって、父母も国も地域も協力することが必要だ。そのためには雇用環境を整え、保育サービスを充実させ、医療体制を整え・・・非常に高邁な理想が書き綴られている。◆そもそも少子化とは何故おきたのか?何故、夫婦は出産をしなくなったのか?私は、その原因は「核家族」だと思う。この言葉は、今は当たり前になりすぎて使うことがなくなってしまった「死語」であろう。でもこの「核家族」こそが、現代の「少子化」の根源だと思う。◆日本の高度成長期に若者たちは「田舎」から「都市」に移動をした。田舎ではその若者の父母だけが残り、「核家族」となる。それが現代の「限界集落」に繋がっている。そして都会にでた若者たちは、「団地」という箱の中での居住を余儀なくされる。その頃の「団地」は若者であふれており、そして結婚して出産、多くの子供の遊ぶ声が聞こえていた。それが日本の高度成長期の典型的な姿だ。◆ところがその団地で生まれ子供が成人して結婚しても、その団地で親と同居できるはずもなく、またまたそこでも「核家族」が誕生する。女性も働くことが当たり前だ、そんな国の方針に沿って女性の社会進出が目覚ましい。そのために子供は必然的に一人でいい、ということになる。◆このような物理的な理由だけではないと思う。もともと日本は親と同居するのが当たり前の文化だった。親は子供を育て、そして子供は親の面倒を見る。しかし今は、「親とは同居したくない」という現象が日本のあちらこちらに発生しているのではないだろうか。もし「親と同居」していたら、子供がたくさんいても祖父母が面倒を見てくれて、子供は乳幼児から保育所に行く必要はなく、祖父母が保母さん代わりになってたくさんのことを学べるはずだ。高齢化が進めば進むほど、子供に対する祖父母の役割が大きくなる。◆私は断言できる。もし現代に「家督を継ぐ」という遠い昔の習慣を法令化するなら、間違いなく少子化は解消できる・・でもそんなこと不可能。であれば、「少子化社会対策基本法」という法律に、地域社会のことばかりではなく、家族のことも明記してはいかがだろうか。「子供は結婚してもできるだけ親と同居するべし・・・」と。もし少しでも同居率が上がれば、たったそれだけのことで少子化は解決できる・・・と劣等生の独り言・・。

2011.3月号

2010年の年末、日経新聞の「何でもランキング」で「気分一新 自分を元気づける言葉」のランキングが掲載されていた。少しそれを紹介しよう。まず第三位は「人は人、自分は自分」、二位は「まあいいか、気にしない」、そして第一位は「なるようになる、なるようにしかならない」。ちなみに第四位は「明日は明日の風が吹く」、第五位は「時間が解決してくれる」となる。◆これらの共通項は、いわゆる「他力本願」。自分が前向きになれないときに自分から道を切り開くという姿勢ではなく、すべてにおいて他人任せ、風任せの風潮なのか。◆ところが下位にはこんな言葉が出てくる。14位は「人事を尽くして天命を待つ」、18位には「過去と他人は変えられない。自分と未来は変えられる」、19位は「努力は裏切らない」・・・。なんと前向きな、そして力強く熱い言葉なことか。◆これらの共通項は「自力本願」、自らの力で道を切り開き、精一杯の努力をして、とことんまで全力を尽くし、その結果がダメであればそれはそれで仕方がない。とにかくまずは努力すること。そんな気持ちを読み取ることができる。◆しかしこれらの考えは少数派。多くの人達が他力本願的な考えに依っている。少し極論すると、自分の人生は自分の努力で作り出すものではなく、自分の回りの環境が作り出していくものである、そんな理屈がとおりそうだ。現代はそんな理屈が通る時代だということか。◆あくまでも推測だが、戦後、あるいは戦前にこのようなアンケートをとったら、おそらく「人事を尽くして・・」とか「自分の未来は変えられる」あるいは「なせば成る」、「石の上にも三年」や「努力に勝る天才なし」などのような言葉が上位に並ぶのではないかと思う。自分の意志により人生を切り開いていく、そんな気概が伝わってくるのではないだろうか。◆しかし現代は現代・・ストやデモで事態が変わるわけでもなく、「イノベーション」と声高に言っているものの、それは私たちが変えていくのではなく大手資本がすべてを取り仕切り、すべての変革を担っている。しかもすさまじいスピードでの変革が行われている。私たちはその変革についていくしかない。ついていくことができれば勝者となり、ついて行くことができなければ敗者となる。◆そんな今の日本にドロドロとした「努力」だとか「全力」だとか「我慢」などと言うような言葉は全く似合っていないのだろうか。すんなりとこの時代に迎合して、スマートに美しく生きる・・それが本物の人生と言えるのだろうか?◆どのような時代であっても人として大切なことはきっと変わらないはず。私はそう信じて、「努力」を惜しまず、自分の人生は自分で作りあげていくことができると信じて、ジッと我慢をして、全力で「今」という時に取り組んでいきたいと思っている。そんな愚直な劣等生でいたい。

2011.2月号

ここ数ヶ月の間で携帯電話とノートパソコンのあり方が急速に変化しつつある。ドッグイヤー(1年が7年程度のスピードで進む感覚を言う)を越えていく勢いがあるぐらいのスピード感がある。◆携帯電話はより使いやすく、より多機能になり、スマートフォンというタイプに集約されそうな勢いがある。片手で持てるぐらいの大きさで、大画面に色々な情報が表示され、そこにはパソコンとしての機能も備わっている。一方、ノートパソコンはというと、タブレットPCと呼ばれる姿に変わりつつある。平べったくてタッチパネルで操作することのできる携帯に便利な端末のこと。その代表はiPadである。◆ところがそのタブレット端末がどんどんと小さくなってきて、そして携帯電話の機能もついているものが発売されている。多機能なスマートフォンが大きくなったのか、タブレットPCが小さくなり電話機能をつけたのか・・・?あぁぁぁ、悩ましいことである。まっ、しかし、悩むことではないのか。要するにこういうことになる。ノートパソコンのキーボードがなくなり、小型化軽量化して持ち運びに便利になり、そしてそれに電話の機能がついた。◆別の言い方をすると・・・それ一台を持って歩いていれば、電話もかけられるし、自分の現在の位置も把握できるし、目的のお店を捜すこともできるし、子供のいる場所も特定できるし、メールを送る事もできるし、写真を撮ることもできるし、重要な話は録音もできるし、本を読むこともできるし、スケジュール管理もできるし、新聞を読むこともできるし・・・・とにかく何でもできるということ。◆これから5年後にはおそらくこのような端末は当たり前の時代が来るのだろう。でも今はまだ黎明期。色々なメメーカーが思いつくままに様々な商品を発表している。その中からユーザーにより淘汰されて、最終的な端末のあり方が決まってくるのだろう。◆私はおよそ30年前に、日本で初めて本格的なパソコンとして発売されたNECのPC8001を手に入れた。おそらく日本でのパソコンユーザーとして最も古い人の一人なのだろう。その30年間、パソコンの歴史を目の当たりにしてきた。パソコンが一度にやりとりできる情報量が30年前は8ビット、ところが今や64ビットの時代に入っている。分かりやすく言うと、30年前に比べて8倍のスピードがあるということ。記憶する容量も昔は1メガバイトで「すごい」という感じだったのが、今や1テラ(1メガの100万倍)が当たり前の時代になった。◆パソコンの発達と同時に携帯電話もどんどんと発達してきた。それに加えてカメラの発達もすごい。デジタル化が進んだことにより、コンパクトサイズになり、しかも画像が非常に美しくなっている。そして今、これらのデジタル機器の端末が合体を始めている。電話屋さんがパソコンを売る時代になるのか。いや、そもそもが「パソコン」という概念がなくなるかもしれない。◆パソコンという概念は、ビジネスでは生き残ったとしても、プライベートでは「生活端末」とか「オールラウンド端末」などと呼ばれるような範疇が生まれるのではないだろうか?商品名としては「もしもしなんでも帳」とか「PCフォトフォン」とか「コンビニフォン」とか・・・。年の初めにこんなことを予想してみることも悪くはない。今からこれらの呼び方を商標登録をして一攫千金の夢でも見よう・・・。

2011.1月号

平成22年が終わり、新たに平成23年が始まろうとしている。新しい年の始めに相応しく、先月に引き続き「夢」のお話をしたいと思う。◆夢を見続けるには絶えず自分を変革していくことだと書いた。それは自らの意志においては確かに可能ではあろう。しかしその意志を実行していくことのできる環境も必要だといいたい。例えばジョギングに一生懸命になるのはどこかのマラソン大会に出場することにより「夢」が形成されるはず。もし世の中にマラソン大会なるものが存在しないのであれば、今のジョギングブームがおきたかどうか疑問だ。もちろん記録を縮めることも「夢」であるには違いないが。◆いくら職人になりたいとはいっても、職人になっただけでは収入の道がない。例えば大工さん。自分の夢は大工さんになること、そしてその夢を果たしても仕事がない。あるいは自分は農業に従事して自然と共に暮らしたい、そんな夢を描いても農業では所得があまりにも少ない。自給自足の生活を強いられる。やはりある程度は農業で豊かになりたい。○○資格を取りたい、そして社会でバリバリ活躍したい。でも実際にはそんな資格を取得しても何の役にも立たない。それだけの仕事がないのだから。◆あるいは音楽で身を立てたいと夢を見る。しかし大手事務所に所属して有力プロデューサーにプロデュースされないと売れない現実。逆に言えば有名プロデューサーさえつけば、確実に売れるという現実。そうではなく誰でもが「音楽」という市場に打って出ることができ、そして誰でもが音楽で身を立てたいという「夢」を実現できるチャンスを・・。◆「夢」とは社会のあり方に大きくかかわってくる。社会のあり方によって夢の形も変わってきたり、あるいは「夢」を見ることができなくなる。◆今の日本はどうなのか?私たちに多くの「夢」を見るチャンスを与えてくれているのか?将来の日本に夢を描くことができるのか?残念ながら毎日毎日新聞を賑わしているのは、言ってみれば内輪ネタばかり。こんな内輪ネタの為に私たちは税金を納めている?失望と絶望の連続だ。国に対して何を期待すればいいのか?国の形が明確になり、そして社会の形が一人一人認識できるようになり、そしてその中で国民一人一人が夢を見ることができる、そんな日本でありたい。◆民主党が「事業仕分け」をしている。すばらしいことだと思う。何故その仕分けをしなければいけないのか?それは前政権が長きにわたって「箱物行政」に代表されるような無駄な行政をしてきた結果ではないのか?それなのにその前政権の人達はその「事業仕分け」の仕方が悪いなどと批判をする。自らを反省することなく、人の揚げ足ばかりをとる政治。日本のトップが何を考えているのか全く分からない今日本。◆よし、これからはこれ以上「国家」には期待をしない。自らの力で自らの道を切り開く為の「夢」を見ることとしよう。まずはささやかな夢を・・体重を5㎏減量、「感謝」の気持ちを決して忘れない、そしてそして私の回りの多くの人が「幸せ」だと思えるようにする・・・本当にささやかな夢を見ている劣等生です。

2010.12月号

人が「生きる」時には必ず「夢」が必要だと思う。夢のない人生はすべてを放棄したことに通じるのではないか。実際に人はどんな時に夢を見るのか?◆小学時代はまだ「夢」と「現実」の区別がついていなくて、「夢」という概念ができあがっていないのではないだろうか。ワクワクとした気分の高揚を感じることができるのは、おそらく中学に入学したとき。どんな異性の友達ができるだろうか、どんな先生に出会うことができるだろうか、そんなワクワク感が夢となっていく。そして高校、大学と果てしなく夢を見続ける青春時代。それと同時に失望感を多く味わうのもこの時代の特権かもしれない。◆さていよいよ大きな夢と希望を胸に社会人になる。それから結婚をする。そのときにも大きな夢を見る。そして子供ができてその子供に大きな夢を託す。家族や仕事に対する夢・・・果たしてその夢の正体は何なのか?◆夢とは永遠に続くものではなく、そのときそのときの瞬間で見るもののようだ。例えば大学に入ったときに、「どんな恋愛ができるのか」とワクワクする。しかし次の瞬間には、現実の厳しさを味わい失望を感じることになる。すなわち「夢」とは虚像であり、「現実」が実像であるとも言える。◆しかし「夢」は例え虚像だとしても、冒頭に書いたように人には必ず必要なものだと思う。「失望」は「夢」があることが前提となる。人は「夢」を見るから失望もして、そして悩んだり苦しんだりする。「夢」のない人生はどんなものだろう。「失望」が存在しないわけだから多分すごく楽な人生なのか・・・例えそうであっても私はそんな人生を送りたくない。平坦で一見して平穏無事で、そして見方によっては無味乾燥な人生、考えただけで面白くない、つまらない、退屈な人生・・・私にはそんな人生は無理だ。◆しかし「一つの夢」を見続けることは不可能だ。実現しないときに「失望」で終わり、実現したときは「満足」で終わる。その時点でその「夢」はピリオド。それではその「夢」を見続けるにはどうすればいいのか?いつもかもワクワクするような人生にするにはどうすればいいのか?◆それには自分の人生を絶えず変革していくことだと思う。前進か後退かそれは分からない、そんなことはどうでもいい。今の自分を変革し、そして未知の世界を絶えず垣間見ていくこと、いわゆるチャレンジをし続けること、それこそが「夢」を見続けるコツではないのか。◆失敗してもいいではないか。今の「自分」に満足することなく、途切れることなしにチャレンジすること。どんなことでもいいと思う。国家資格にチャレンジ、肉体改造にチャレンジ、フルマラソンにチャレンジ、もちろん仕事においても新たな可能性にチャレンジ・・・こんなチャレンジこそが人生を豊かにして、いつまでも青春時代のような「夢」多き若々しさを発揮できるのではないのだろうか。私はそんな人生を送りたいと思っている。老いを感ずれば感じるほど、そんな「夢」を見続けたいと思っている劣等生です。